ムツボシくんの山城全盲物語
むつぼしくんが飛行機に乗っている画像
2019年11月20日

ムツボシくん、インクルーシブ教育の問題点について、持論をアツく語る!

 ハーイ!ムツボシくんです。みなさんは、年に一度、「サイトワールド」というイベントが東京で行われていることをご存知でしたか。サイトワールドとは、視覚障害者に特化した世界で例をみない総合イベントです。今回、ムツボシくんがシンポジストとして参加したのは、このイベントの最終日の午後、「視覚障害教育の現状と課題」というシンポジウムでした。テーマは、「視覚障害のある児童・生徒がどこに通学しても、専門性の高い視覚障害教育が受けられる体制を確立するには」です。

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9階の会場からはスカイツリーがビルの隙間に顔を見せていた


【まずは視覚障害教育からみたインクルーシブ教育の概観です】

 みなさん、視覚障害教育の専門家はどこにいるのですか。地域校で学んでいる視覚障害児が在籍する小・中学校にいるのですか。おられないのです。視覚障害の専門家は各都道府県の視覚障害に関する特別支援学校(以下、盲学校)にしかいないのです。

 この盲学校が現在、全国で60数校、しかも在籍生徒数は全国で約2600名強という生徒減少がとどまらない状況なのです。「生徒減」に悩む盲学校というところです。特に義務教育段階において、視覚に障害のある子どもたちの多くが盲学校への通学を選ばず地域校に通っているのです。

 それならば、なおさら、地域校に視覚障害教育の専門性ある教員を配置しなきゃ、と思いますよね。ところがそうはいっていないのがわが国なのです。

 みなさんがもし、全盲のお子さんのパパ・ママの立場だとします。あなたは、全盲のお子さんを地域の学校の通常学級に通わせたいと思っています。さて、あなたは地域校の担任の先生に次の5つのうち、どの項目を担任の責任でしっかりやってほしいと思いますか

 (1) 担任の先生には点字の読み書きは覚えてほしい。←点字を指で読めるようにする指導、誰もができるでしょうか?点字一覧表を覚えるのがやっとではないでしょうか。

 (2) クラスで配布されるプリント類やテスト問題、副教材のワークなどは点字で与えてほしい。←優秀な点訳ボランティアを抱え込まない限り無理でしょうね。点訳は面倒なので、テストは口頭ですませたとなりそうです。

 (3) うちの子だけは、音声のパソコンや音声でのタブレットの使い方を教えてほしい。←「あなたのお子さんだけにそのような機器を持たせるわけにはいきません」と答えが返ってきそうです。また、音声によるパソコン操作(パソコンの設定)も教えられる人はいません。

 (4) 視覚を用いない学び方を教えてほしい。見えなくても分かる授業をしてほしい。←一朝一夕にできる教育方法ではありません。

 (5) 障害を気にすることなく居場所のある学級づくりをしてほしい。←これだけはぜひがんばってほしいところです。

 さあ、いかがですか?保護者としてはもちろんこれら5項目すべてを希望したいところです。しかしです。地域校の先生はこれら5項目のような専門性高い指導内容をどこで身につけてきたというのでしょうか。できるわけがないのです。だって、教員養成大学でもそんなこと教えてはいません。これら5項目に着目して子どもたちを支援しているのは各地の盲学校だけなのです。盲学校だけが多くの地方において、視覚障害教育をこれまで綿々と続けてきているのです。わが国の視覚障害教育はすでに140年を超えているのです。

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吠える?ムツボシくん!


【私の持論です】

 地域で学ぶ視覚障害児を担任できる教員、または地域校の弱視学級の担当者を盲学校が責任を持ってその地域校に派遣するシステムを作るのです。盲学校の教員でありながら、勤務先は地域校で学ぶ子どもたちの教室とする教員を作り出すのです。盲学校と地域校との兼務辞令を出せばよいのです。地域校に全盲児が入学したとします。盲学校からは小学6年間を3年区切りにて2名(もしくは2年区切りにて3名)の教員を地域校に派遣し、地域校との兼務辞令のもと、事実上地域校勤務を行うのです。ムツボシくんが現役時代に弱視学級の保護者からよく聴かされてきた、「担当者が毎年ころころ変わりすぎる」「専門的な教育を受けられると思って弱視学級を作ってもらい入ったのに未経験な臨時職員が担任だった」などの苦情にもこれなら対応できます。

【結論です】

 盲学校がその地方の視覚障害教育全体に責任を持てるような体制をつくらない限り、「どこに通学しても専門的な視覚障害教育が受けられる」といった体制はできないのが現実ではないでしょうか。

 以上が今回のシンポジウムで語った概要ですが、詳しくは「盲学校に聞く‘インクルーシブ教育時代の歩き方’」の記事を参考にしてください。また、当日のムツボシくんの発言の一部はこちらから聴くことができます。

【参考サイト】

○シンポジウム「視覚障害教育の現状と課題」/ムツボシくんの発言が聴けます(18
分40秒)
 http://nichimou.org/wp-content/uploads/2020/01/koehiror0201_a000006.mp3

○視覚障害者向け総合イベント/サイトワールド
 http://www.sight-world.com/

○盲学校に聞く‘インクルーシブ教育時代の歩き方’
 http://nagao.miyakyo-u.ac.jp/shisaku/inclu.html
2019年7月27日

夏休みに使ってください!中学1年用教科書準拠ワーク点訳版を一部公開します

 ハーイ!ムツボシくんです。滋賀県立盲学校より点訳要請のありました中学1年用の教科書準拠ワークを一部公開します。点訳はぼちぼち会です。

 最新の準拠ワークなのですが、残念ながら全巻点訳完成とはいかず、現時点での部分完成版となっております。それでも、長期休業となり、利用される生徒諸君や先生をはじめとする関係者の方がおられるのではと思い急ぎ公開することとしました。どうぞ、自由に次の各科目ファイル名のリンクからダウンしてご利用ください

 【国語】 「中学1年国語のワーク」(光村教育図書、2019年、「5 いにしえの心にふれる」原本p97までを点訳) 1nen_kokugo.zip (198kB)

 【数学】 「中学校数学ステップパワード1年」(学校図書、2019年、「第5章 平面図形」原本p109までを点訳) 1nen_sugaku.zip (597kB)

 【理科】 「科学基礎の徹底1年理科」(東京書籍、2019年、「第4章 物質の姿と状態変化」原本p49までを点訳) 1nen_rika,zip (573kB)

 【歴史】 「中学社会・歴史ワーク」(教育出版、2019年、「第6章 近代の日本と世界」原本p69までを点訳) 1nen_rekishi.zip (179kB)

 【英語】 中学1年英語ワーク「NEW HORIZONT」(東京書籍、2019年、「Unit6」p65までを点訳) 1nen_English.zip (42kB)
2019年6月24日

【手で見る京都検定3】 蓮の葉に‘雨のエクボ’を見つけた法金剛院

 ハーイ!ムツボシくんです。平安時代の初め、右大臣・清原夏野が双丘寺として創建し、858年文徳天皇が大伽藍の天安寺として中興し、1130年鳥羽天皇の中宮・待賢門院が都の西方に極楽浄土を求めて再興したのが、今回訪ねた法金剛院(律宗)です。

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丸太町通に面する法金剛院の門



 国の特別名勝の庭園は、わが国最古の人工の滝「青女の滝」を中心とした回遊式浄土庭園です。春の「待賢門院桜」は珍しく、ヒガンザクラ系のベニシダレザクラの変種で、花の色が紫に見えると言われています。秋の紅葉ももちろん有名です。ただ、こちらの庭園には年間を通して花が咲き誇っており、特に7月から8月にかけての蓮は観察会が定期的に行われるほどの人気で京都で「蓮の寺」と言えば法金剛院となるそうです。

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寺名が書かれた表札にも蓮のレリーフが触れられる



 さて、ムツボシくんが訪ねたのは90種の蓮が咲き乱れるには一足早い6月の雨が似合う時の記念日でした。

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蓮の葉の中心に雨のエクボ?



 これが蓮の葉。中心にたまった雨の水たまりが、ムツボシくんには葉っぱのえくぼのようです。見える人にはどんなふうに見えるのでしょうね。ムツボシくんには見つけてうれしい驚きでしたが、見えていれば、けっこうよくある風景なのかしら。

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蓮の花が開くのはもう少し先。でもツボミがこんなに高い位置まで伸びるんだ



 雨の庭と言えば紫陽花でしょうか。法金剛院も隠れた紫陽花の寺とも言えます。

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庭のあちこちで触れ慣れる紫陽花の法金剛院



 仏堂ではご本尊の阿弥陀様などがすぐ間近で拝見できます。弱視の人ならこの距離なら見える人も多いかもしれませんよ。撮影禁止なのでここでご紹介できませんが。

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これが青女の滝



 こちらのお庭で何と言っても有名なのがこの「青女の滝」でしょう。この石組は、背丈ほどもある大石が2段に組まれたもののようで、巨石を用いた滝石組は平安時代特有のものと言われています。残念ながらこちらも近づくことはできず、滝の音を聞くのみでした。ただ、この水が流れ出す川に咲く花菖蒲は今が見頃だったようです。

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川辺まで降りて花菖蒲を観察



 最後に、おすすめする6月の法金剛院と言えば、それがこちらの菩提樹です。花が咲き誇り匂いが一面に広がっています。菩提樹と言えばお釈迦さまの悟りの木ですね。そして、お釈迦さま入滅の木、沙羅双樹も見事に咲き誇るのがこの時期の法金剛院なのです。仏教の聖木がそろうのが法金剛院なのでした。

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菩提樹の花、間近では少しきつすぎる匂いかな



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沙羅双樹の花、こちらは近づけません(妙心寺塔頭・東林院なら触れられるかも)



 おまけとしてですが、庭の片隅に鬼瓦が陳列されていました。こちらも必触ですよ。鬼の顔を触れてイメージするのにも最適ですし、卍(まんじ)の型にも触れられます。

写真10●写真いろんな型の鬼瓦にじっくり触れてみよう



 色や光は感じられなくても、触れたり顔を近づけたりすることでお花や葉っぱの様子はかなりわかるものです。そして、現地にてできるだけ多くの花や樹木に触れてきたら、おうちではお庭の全体像をイメージしてみましょう。これには見える人の力を少しお借りして、お庭全体をいくつかの方向から撮影した写真を見てもらいます。

 お庭の輪郭とその大きさは?池の位置とその形は?水の流れのルートは?お堂の位置は?などを尋ねてみましょう。これらを頭に入れて全体像をつかみましょう。

 それができたら、次に、現地にて触れてきたお花や樹木があった位置を教えてもらうのです。これがうまくできたら、かなり鮮やかに法金剛院のイメージがあなたの記憶に残ることでしょう。もしかしたら、それって見える人よりも鮮やかかもしれませんよ。
2019年5月24日

‘歩くまち京都’の取り組みってダレのためなの?

 ハーイ!ムツボシくんです。山城国に引っ越ししてきて約1年、いろいろと落ち着いてはきました。当初なかなか利用できなかった同行援護サービスも、おかげさまで順調に利用させていただいております。ただ、問題がなくなったと言うわけではないのが悲しいところです。もっか最大の問題は、地下鉄の駅までの白杖歩行。駅まで一人歩きする道の歩きにくさです。次の写真をご覧ください。

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狭すぎる道、一方通行でもないのです。



 ムツボシくん、この1年の間に、車のドアのミラーと3回、この写真の場所にて接触、ぶつかりました。

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電柱が飛び出ているため、さらに危険です。



 もちろん、警察署にも相談しましたが、何ら対策はないようです。京都では、こんな道は当たり前との開き直り。電柱を埋設すればいいのですが、埋設有線は観光地の美観地区のようです。

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端っこを歩けば落ちる。どこを歩けばいいのでしょう?



 私の住む町では、どうも「歩道整備」と言う発想はないようです。狭い道を行き交う車、飛び出している電柱、そして、歩行弱者にトドメをさすのがこのフタのない溝です。

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こんな幹線道路であっても、近くの地下鉄の駅まで誘導してくれるブロックは歩道にはありません。



 また、京都市では、幹線道路であっても、しかも、幅がある程度ある歩道であっても誘導のための連続する点字ブロックは敷設しないのがどうやらルールのようです。指折りの賑わいを示す四条通り大丸百貨店前を先日歩きましたが、最近拡幅されたここの歩道にすら点字ブロックは交差点を示す位置にしかありませんでした。京都市では、連続して歩道に誘導ブロックを敷くことはしないようです。ムツボシくん、その理由が未だにわからずにおります。

 この写真の幹線道路ですが、ラジオの交通情報では常連の渋滞路。車量も多く大型トラックがビュンビュン通ります。この交差点の音響信号がなんと朝7時から夜7時までだったのです。まるで一人歩きする視覚障害者は夜7時までに通りなさい。夜7時までが社会参加できる限度ですよと言われているみたいです。ただ、この問題は、この4月、地元の市議会議員にムツボシくんが相談することで、わずか一月ほどで改善されました。夜8時半まで延長されたのです。思い切って市議会議員に相談してよかったと痛感しています。
実は、この夜7時で音が消える信号については、1年前から「障害のある人もない人も共に安心していきいきと暮らせる京都」の京都府条例窓口および京都府視覚障害者協会に相談をしていたのですが、どちらもなしのつぶてだったのです。

 さてさて、そんな京都市ですが、なんと「歩くまち京都」と言うキャンペーンをここ数年やっているのですよ。しかも「国土交通省バリアフリー化推進功労者大臣表彰」を平成30年度にはいただいているのです。歩行弱者市民のムツボシくんに言わせると、ああ、なんたる皮肉でしょうか。

 「第12回「国土交通省バリアフリー化推進功労者大臣表彰」の受賞及び表彰式の開催について」と言う文章を見ますと…

 「京都市では,人と公共交通優先の「歩くまち・京都」を推進するとともに,地域住民,関係団体,交通事業者,行政機関等の皆様に御理解と御尽力を賜りながら,鉄道駅や道路等のバリアフリー化を進めてまいりました。この度,バリアフリー化に関する継続的な取組や四条通歩道拡幅事業等の先進的な取組等が評価され,京都市が第12回『国土交通省バリアフリー化推進功労者大臣表彰』を受賞することが決定しましたので,下記のとおりお知らせします。(以下、略)」

 歩行弱者にはこの「歩くまち京都」は無関係だと言うことだけはわかります。おそらくはこうなんでしょう。地域住民からは、「ごめんなさい。観光客優先の市政をさせてください」とのご理解を得ています。だから「観光客が多く行き交う駅周辺の整備をさせていただきます」のでご尽力をお願いします。そして、「バリアフリーの恩恵を受けたいのなら、観光客が利用しているような地区に先進的にお住まいください」と言っているとしか、読み取れなかったムツボシくんでありました。

[参考サイト]

○京都市/歩くまち
https://www.city.kyoto.lg.jp/menu4/category/51-0-0-0-0-0-0-0-0-0.html

○第12回「国土交通省バリアフリー化推進功労者大臣表彰」の受賞及び表彰式の開催について
https://www.city.kyoto.lg.jp/tokei/page/0000246802.html
2019年4月17日

【手で見る京都検定2】 あなたの歩行能力が試せる地主神社&清水寺

 ハーイ!ムツボシくんです。白い杖を普段から利用して歩いておられる視覚障害の方にはぜひ訪れてほしい神社があります。それが京都市東山区清水1丁目の地主神社(読み方は、じしゅじんじゃ)です。この地名でもわかるように、地主神社は、清水寺の境内に立つ鎮守社で、縁結びの神として信仰を集めています。もちろん世界遺産です。

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地主神社の全景、本殿、拝殿、惣門はともに重要文化財。



 地主神社には、1本の桜の樹に八重と一重の花をつけるという珍しい桜があり、平安初期、嵯峨天皇がこの桜を振り返るために3回も車を引き替えさせたという「御車返桜」としても有名な桜です。

 ただ、ムツボシくんは「花より団子」、「景色より体験」です。何よりここ地主神社でぜひとも体験してほしいことがあるのです。視覚障害教育において大切な課題の一つに「歩行能力を高める」と言う課題があります。その力がどれだけ身についたかな?って試せる場所がこの境内にあるのです。しかも、あなたの思い人との縁も占えてしまうのです。「恋占いの石」と呼ばれるのがそれです。

写真2
これが恋い占いの石



 本殿前にある1対の立石は「恋い占いの石」と呼ばれています。一方の石から、10mほど離れた他方の石へ、目を閉じて歩いていければ願いが叶うと言われているのです。まさに歩行能力を高める課題そのものですね。私たち全盲の者にとって真っ直ぐにどれだけの距離歩けるかは歩行能力の基礎中の基礎力なのであります。ムツボシくんが盲教育に携わっていた時は、全盲の子どもたちには、最低10mは真っ直ぐ歩けないといけないと口を酸っぱくして言っていたものです。アメリカの原子物理学者ボースト博士により、この一対の石は、縄文時代の石であることが証明されたという記事をどこかで読んだことがあります。京都のこんな場所に縄文時代からの石が向かい合って今も頭を出しているのですね。何ともスピリチュアルです

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足裏に集中すると方向がわかるかもですよ。



 とにかく参拝者が多いので、ぶつかってしまうことは覚悟の上、むしろ、ぶつかって方向が狂ってもその狂った分だけ自分でちゃんと方向を修正できるかって言うのも歩行能力ですので、まさにここは歩行能力を試すのにピッタリ!です。

 地主神社では他にも触りどころがありました。

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撫で大黒さん。



 この神社の祭神、大国主命の大黒さん。具合の悪い身体の部位と同じ場所を撫でるとよくなるという他にこんな御利益があります。小槌は良縁・開運・厄除け。頭は受験・成績向上。お腹は安産祈願・子授け祈願。手は勝運・芸能上達。足は旅行安全・交通安全。俵は出世・土地守護・家内安全・夫婦円満。福袋は金運・商売繁盛…。もちろんムツボシくんは福袋を重点的に撫でさせていただきました。

写真5
人型の絵馬は願いを書いて水に浮かべます。



 他にもドラを3度たたいて願いをかける幸福祈願所では、ドラは音の余韻が長いほど願い事が叶いやすいとか。女性だったらどんな願い事でも一つだけは叶えてくれるおかげ明神とか。敷地はそれほど広くはないのですが、触れる物は多い方です。ただ、建物の構造やその特徴を知ることができないのが残念でした。

 ここまで来たので、お隣の清水寺での触りどころも見つけてみました。

写真6
仁王門を過ぎた石段にある菊の模様



 まずは、歩行能力を試す場所がここ清水さんにもあるのです。正門を過ぎて清水の舞台に行く前に立ち寄ってみました。それが随求堂(読み方は、ずいぐどう)での胎内巡りです。階段を降りて行くと暗闇の通路に出ます。ここが本尊である大随求菩薩の胎内となります。手さぐり足さぐりで進みます。途中にある直径30センチほどの随求石を見つけたらそれを回転させて願い事を叶えてもらいましょう。

 本堂では、もちろん清水の舞台に立ってみたいところでした。が、現在は修繕工事中でした。そこで、本堂内では、こんな場所に手が注目しました。

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本堂入り口にある鉄棒と鉄下駄(弁慶のものでしょうか)



写真8
本堂の床、板目の節が盛り上がっていて他の部分がすり減っています。



写真9
「けいし」と言うようです、でっかいおりん、お願いして触らせてもらいました。



 最後は音羽の滝です。三筋に分かれて落ちる清水はそれぞれに御利益があり、向かって左から「学業」「恋愛」「健康(長寿)」の願いが叶うとされています。3つとも飲むのは「欲深い」とされ一箇所の水をいただきます。それにしてもこの「向かって左から」の意味がよくわかりません。長い柄の柄杓を差し出す場所は、滝の裏側です。「向かって左」の意味は「清水の舞台の方から見ての左ではないか」と判断し、一番左(向かっての右のご利益をいただくつもり)の滝の水を探しました。柄杓に伝わる落水の力はかなりなものでした。汲んだ水は1回で飲みきらないと願いが叶わないという伝説もあるようで(2回に分けて飲むとご利益も2分の1になるとか)、柄杓一杯汲んでしまったムツボシくん、500ccはあったでしょうか、必死で飲みきりました。

写真10
健康・長寿のご利益をいただいたのかな?音羽の滝。



 「一口にて飲める分だけを汲んで飲まないとご利益がない」と言うのは、欲張らずに「分を見極めなさい」と言う意味なのでしょうね。

 話は変わりますが、ただいま全盲者の京都検定受検配慮について、京都商工会議所会員部検定事業課に相談中です。現時点では読み上げ受検を考えていただいております。ただし、読み手(代筆にてマークシートに記入もする)を自前で準備していらしてくださいとなっています。今回で16年目となりますが、どうやら、これまで点字受検をした人はいなかったようです。

2019年3月27日

「菊花賞」が「きくかしょー」と点訳されるなんて…!これでいいのか?点訳の世界

 ハーイ!ムツボシくんです。ムツボシくんはもちろん点字のユーザーであります。ご存じの方も多いでしょうが、点字に訳すとき、普通は漢字の点字法は用いずに、すべてを仮名に訳して点字にするのです。そうです。点訳の世界では漢字は原則として用いないのであります。

 【点訳ナビゲーター】 

 さて、それじゃ、「この漢字、なんて仮名書きするの?わからないなあ」なんてことも点訳をしている最中に出てきちゃいます。そこで、点訳を専門にされている方にとっては、点訳のときに各種の国語系辞典やネットなどを駆使して仮名遣いを調べるのは当たり前なのであります。

 点訳の専門家の方々は、その多くが各地の点字図書館等、点訳物を視覚障害者に提供してくださっているサービス機関に所属され、日々研鑽に努めて織られます。これら機関の全国的な団体が特定非営利活動法人「全国視覚障害者情報提供施設協会」(全視情協)と言い、そこが、点訳社の調べ物に便宜を図るためにでしょうか、点訳のときの仮名遣いを調べるのに役立つように「点訳ナビゲーター」と言うサイトを運営されておられるのです。

 【違和感のある点訳ナビゲーターの仮名遣い】 

 みなさんは、次の漢語、どんなふうに仮名表記されますか。

(1) 菊花賞の「菊花」

(2) 国公立

 なんと、この点訳ナビゲーターを見ますと、(1)菊花賞の「菊花」は「きくか」となっています。また、(2)国公立は「こくこうりつ」となっているのであります。

 えっ?これって今の日本語の常識?ですか。全国で「菊花」や「国公立」はこのように点訳されているのですか。違和感を感じたムツボシくんがおかしいのかしら…。(1)は「きっか」、(2)は「こっこうりつ」と点訳してほしいとは思いませんか。

 【これでいいのか?点訳の世界】

 なんでこんなことになっているのでしょうか。「菊花」について考えて見ましょう。おそらくこうなのではないでしょうか。点字では漢字が用いられないため、点字ユーザーは、その語句の元となる漢字を推測できないでしょう。「菊」と言う漢字の点訳は「きっ」ではなくて「きく」とした方が親切なのではないかしら…なんて話が全視情協の人たちにあるのでしょう。もしも、そうだとしたらこの点訳は、余計なおせっかいであります。と言うか、点字ユーザーをバカにしているのではとも思えてきます。私たち点字ユーザーが「菊花」を「きっか」と点訳されたら理解できないでしょと言わんばかりです。広辞苑を調べてみました。「菊花賞」の「菊花」は「きっか」と、「国公立」は「こっこうりつ」といずれも見出し語で出ていました。この点訳の専門科が集まり、しかも点訳者を養成しているこの団体が現在の日本語の仮名遣いを曲げてでも、このように点訳すると言う姿勢が理解できません。そもそもこの団体の点訳のルールを決めておられる組織に、点字ユーザーの当事者の方はおられないのでしょうか。なんで、点訳の世界がこんなことになってしまったのか、とても疑問です。

 【正しい日本語を伝えてください】

 日本語は生き物だと言われます。過去に「きくか」「こくこうりつ」と見出し語にあった時代があるのでしょうか。手元にある20年ほど前の字書類を調べてみました。なるほど、岩波の「広辞苑第5版(CD版、2000年)と「現代新国語辞典」(学研、1994年)では、「きくか」も見出し語にありました。でも、「→きっか」とあって、「きっか」の方を見なさいとなっており、20年ほど前ですら、すでに、読みの一般は「きっか」だったようです。「こくこうりつ」については、同じく広辞苑第5版に見出しがありましたが、こちらも「→こっこうりつ」を見なさいとなっていました。この団体は、日頃から「可能な限り原本に忠実に点訳しましょう」と唱えておられると聞いています。見出し語に両方ともある場合、「きくか」と点訳する方がより原本に忠実とでも考えておられるのでしょうか。日本では、点訳の憲法的なルールとしては「日本点字表記法」と言う規則を日本点字委員会が定めています。「きくか」や「こくこうりつ」はこの点訳の憲法に抵触していないのでしょうか。日本点字委員会は全視情協のこのような点訳方針をどのように考えておられるのでしょう。

 【心配がぬぐえません】

 この傾向が進むとどうなるのでしょう。子どもたちの点字教科書にもこのような変な仮名遣い点訳が今後現れてきたらと思うとぞっとします。最後に今はそうではないのですが、おせっかい点訳秒が万円してこないか心配になる仮名遣い例をあげてみます。いずれも漢字の意味が伝わるようにとのおせっかい点訳を心配しています。ここにあげた心配が杞憂に終わることを祈るばかりです。

[敵機] → てきき(「てっき」であってほしい)

[薬科 薬価] → やくか(「やっか」であってほしい)

[鉄鉱石] → てつこうせき(「てっこうせき」であってほしい)

[木管] → もくかん(「もっかん」であってほしい)

[赤血球] → せきけっきゅう(「せっけっきゅう」であってほしい)

[江戸幕府] → えどまくふ(「えどばくふ」であってほしい)

[六朝時代] → ろくちょうじだい(「りくちょうじだい」であってほしい)

[法勝寺] → ほうしょうじ(「ほっしょうじ」であってほしい)

【参考サイト】

○点訳ナビゲーター 点訳者のための点字表記検索システム
 http://ten-navi.naiiv.net/

○全国視覚障害者情報提供施設協会(全視情協)
 http://www.naiiv.net/
2019年3月7日

【手で見る京都検定】 ハイビャクシンにびっくり!勧修寺の早春

 ハーイ!ムツボシくんです。今回から始めます「手で見る京都検定シリーズ」。実はムツボシくん、ただいま京都検定2級問題に取り組んでいるのであります。過去15回分の問題を前に、「これも知らなかったわい」とつぶやき、若き受験生時代を思い出して受検対策ノートをまとめているってところなのであります。それにしても最大の問題はムツボシくんの記憶力低下に加えて、何よりも全盲のムツボシくんを点字または音声にて受検させてくれるかどうかです。年度が代われば視覚障害者の受検方法に関して京都商工会議所に申し出をしてみようと思います。どんな対応をしてくださるのか、これも楽しみですね。

 さて、前置きはここまで。机上の受検対策にも飽きて、「実地調査もしなきゃ」とばかり出掛けたのが梅の便りが届き始めた山科区の勧修寺でありました。なぜ勧修寺?これまでいくつか神社仏閣を訪ねたのではありますが、なかなか手で楽しめるところはありません。そんな中でも、京都に来て初めて「見えなくても訪ねてみてよかった!」と思ったのがここ勧修寺なのです。

写真1
梅が咲き始めてきた2月末の勧修寺門前



 まず拝観料を納めたら、そこで無料のパンのくずをいただき池に向かいましょう。平安時代から涸れずに水をたたえる「氷室池」が庭園にあるのです。新年にはこの池に張る氷の分厚さにより朝廷では吉凶が占われたと言う由緒ある池、ここに今、鴨が琵琶湖から渡ってきているようです。さっそくいただいたパンをオーバースローにて投げ込みました。羽音とともに小さく水音が聞こえてきます。

写真2
頭が緑の水鳥って、もしかしてかもじゃないのかも…?



 各建物内部は非公開ですが、明正天皇の旧殿を移築したとされる宸殿の概観には触れることができました。そこで、見つけたのがこの手すりです。

写真3
宸殿の手すり。木目をたどると1本の木を曲げているのではないことがわかる



 この手すり、先がカーブしているのですが、木目に注目してよく触ってみると木目はカーブしていないのです。すべての木目は平行なのです。つまり、このカーブした形のまま、1本の木からくり抜いているのですね。こんなことに気付くのが手で見る京都検定の楽しみなのです。見えている人には写真を撮るほどじゃない些細なことなんでしょうが。

 神社仏閣で触って楽しめるものの代表的なものに、石と庭木があります。ただ触れられないように囲っているところも多い中、こちら勧修寺には触れても大丈夫なものが多くあります。

写真4
落雷により大きく根元から裂けたヤマモモ



写真5
細石(さざれいし)



 さざれ石とは、文字通り小さな石のことですが、日本では君が代の歌詞にもあるように、長い歳月をかけてこの小石の隙間に炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋め込まれてゆき、やがて大きな石となったもののようです。勧修寺の細石はじっくり色の違い目を指で確認できます。全国の視覚障害の多くの子どもたちにも触らせてあげたいものです。

写真6
この木の枝、とっても変わっています、名前わかりますか?



 ムツボシくんは初めて出会いました。こんな枝の木があるなんて。まるで、枝に細い壁が建っているみたいです。トランプのメキシコ国境の壁じゃあるまいし…。係のお姉様に尋ねてわかりました。この木の名前は「錦木」(ニシキギ)と言うそうです。お花やお茶の素養がまったくないムツボシくんにとっては、この予想外の木の姿にかなり深い印象を受けました。

写真7
有名な「臥竜」と名付けられた4代にわたる老梅



 こちらは、江戸時代に京都御所から贈られたとされる「臥竜」(がりゅう)とよばれている有名な老白梅、樹齢300年とも言われているそうです。なんとこちらも触れられました。左から右に向かって世代が進んでいきます。でも、3代目の孫が花をつけているところまでは手で確認できましたが4代目はどこかわかりませんでした。

写真8
圧巻はなんと言ってもこのハイビャクシン!



 ハイビャクシン(這柏槙)をムツボシくん、これまた初めて触りました。ここ勧修寺書院前のハイビャクシンは樹齢750年とも言われています。足下に大海のように広がるかと思えば天高くうねり上がる部分もあるようで、まあ、これが植物なのかと伊吹の木の概念を覆させられました。見栄えと言うか触り映えバッチリです。じっくり触察していても怒られないのがここ勧修寺の素晴らしさです。

写真9
こちらも有名な水戸黄門が贈った石灯篭



 残念ながら、こちらは触れられませんでした。独特の珍しい形の背の低いどっしりした石灯篭らしいです。せめて模型があるといいのですがしかたありません。受検生としては、誰から贈られたかだけでも覚えて、この日は帰ることとしました。

 【お願い】 「これ、ぜひ触れてみてください、触っても怒られませんよ!」、なんて木や石や建造物、あるいは壁や石垣、模型類などご存じの方はぜひこちらまでご一報ください。神社仏閣に関する手で見る「京のさわりどころ」を募集中です。
2019年1月16日

話題の絵本『みえるとかみえないとか」を読んで

 ハーイ!ムツボシくんです。今回は初めてかな?読書感想文みたいな話です。視覚障害を扱った絵本だけに少し気になり読んでみました(ヨシタケシンスケ/作、伊藤亜紗/相談、アリス館、2018年)。

写真1
これが今回取り上げる絵本です



 結論から言いますと、お奨めの一冊です。「自分とは違う」という人(ここでは障害の有無も身長の高低も友だちの多い少ないも全部含めて人と違うとくくります)をこんなふうに感じてはいかが?みたいな視点がいっぱいです。よって、いろんな障害者理解の場面で話題提供に役立ちそうです。

 「そもそもぼくたちはみんなちょっとずつ違う。みんなそれぞれその人にしかわからない。その人だけの見え方や感じ方をもっている。」(p11)

 そして、こんな場面が描かれます。大きい人にしか見えないもの→高い木の上がよく見えている様子。小さい人にしか見つけられないもの→縁の下の様子。聞こえない人だけが見分けられるもの→カメラをもってしっかり見ている様子。歩けない人だけがわかること→ベッドの上から窓の外を絵に描いている様子…。(例として描かれたこれらの場面にはムツボシくんは首をかしげます。だって耳の不自由な人みんなが写真撮影が得意なわけないですものね。でも言いたいことはわかります。)

 この「人と違う身体的な特徴」を作者は、「神様が一人ひとりにくれた乗り物が違うだけだ」と考えてはどうかと提案します。

 「体の特徴や見た目は乗り物のようなものだ。その乗り物が得意なことは必ずあるけれど、乗り物の種類を自分で選ぶことはできない。」(p12)

 そして、違う乗り物の人に対して、特に少数派の乗り物に乗っている人との接し方についても作者は触れていきます。

 「自分と似ている人は安心できる。その乗り物のいいところも悪いところもわかるから。自分たちと違う人はやっぱりちょっと緊張しちゃう。自分と何が違うかがよくわからないから。わからないのはこわいから。でも、ぼくがめずらしい人だったとしたら、どんどん話しかけてもらった方がうれしいんじゃないかな。それに自分と違う人でもお互いの工夫や失敗や発見を教え合ったら、きっとみんな「へえー」ってなる。」(p13)

 めずらしい乗り物じゃない人から話しかけてみたら…。めずらしい乗り物の人たちの工夫や失敗、発見をもっと話題にしては…。それはそれで大切なことだとムツボシくんも思います。でも、乗り物それ自体と身につけている‘なにものか’との関係が曖昧なまま絵本は進みます。

 この絵本の締めくくりはこうです!「同じところをさがしながら、違うところをお互いにおもしろがればいいんだね。それってすごく難しいような気がするけれど、実は簡単なことなのかもしれないね。うーん、でも、まあ、ちょっとずつ練習だな。」

 そして、この場面の絵はこうなります。手が4本、足が2本の人の星に来て、「えっ、きみ手が2本しかないの。かわいそう。」と地球人が言われている絵(やっぱ手が2本だと不便そうに見えちゃうよね)。

 でも、ムツボシくんにはこの絵本、物足りないところがあるのです。「同じところをさがしながら、違うところをおもしろがればいい」という結びは大賛成。

 しかしです。「同じところをさがす」場面の作り方が表面的すぎます。お母さんにギュッとしてほしい人いますか?と尋ねられていろんな身体の人(乗り物の異なる人たち)が手を上げている場面が描かれます。

写真2
その場面の絵はこうです



 作者は乗り物の違いにとらわれることなく、必ず共感しあえる同じところはあるものだと言いたいのでしょう。そんな「親の愛」とか「どんな身体の持ち主でもおなかはへる」みたいな共感に「同じをさがせ」を持ち込んでもムツボシくんはダメだと思います。それは乗り物とその乗り物を身にまとう「なにものか」をあえて分離させて考えてねと言っているかのように聞こえるからです。「乗り物は違うけど、ぼくは(ぼくの乗り物は、ではない)、こんなオプションを工夫したから2輪だけど4輪の君と同じことができるようになったよ」とか、「ぼくは(こちらも、主語は「ぼくの乗り物は」ではない)、1輪だけど、多数派の4輪のみんなが工夫してくれた装置のおかげで4輪同様安定した走行ができるようになったよ」みたいな話がほしいのです。つまり、‘一見、違うけど実は同じだね’といった部分に子ども読者の目を向けてほしいのです。この当たりの話はムツボシくんの過去の記事、例えば「気仙沼で考えた‘みんなちがって、みんないい’の意味」を読んでみてください。

 作者のように、「乗り物は違うけどみんな同じでしょ!」ということを「だって、みんな生きているんだもの」みたいな視点の気づきだけでは、今の日本の子どもたちはどう考えてしまうでしょうか。「私たち、同じ乗り物同士でよかったね!」って安心するのです。そして、どうしても同じ乗り物の人たちが集まり多数派を構成しちゃいます。そこで多数派の乗り物に便利な道路や交通ルールができて世の中となります。めずらしい乗り物の人はこうやって隅に追いやられるのです。この当たり前の流れをくい止めるのが難しいことは日本の子どもたちもすぐに考えつきます。それだからこそ、私たち、めずらしい乗り物側にならなくてよかったと子どもたちは思うのです。それでは、めずらしい乗り物の人はどうしたらいいのでしょう。この絵本を読んでいても、多数派の方からもっと声をかけていきましょうというメッセージしか感じられないのがムツボシくんは物足りないのです。

 作者と伊藤さん(相談者)との対談を読むと、作者が障害者問題を解決しようとして世に出した絵本でないことはわかります。当事者目線をあえてやめて傍観者、当事者への橋渡し者にすぎないことを告白しています。だからこそ、見えるとか見えないというテーマで多くの場面に持ち込める絵本となっているのです。重くないのです。障害者に対する世の中の理不尽を作品で目の前にさらしても、みんな引いちゃう。それなら作者が意図したように傍観から始めてもいいのかもしれません。

 でもでも、ムツボシくんは思います。傍観は傍観だと。多数派の乗り物に乗っている人にとって傍観とは、「めずらしい乗り物を神様からもらわなくてよかった!」となるだけではないだろうかと…。一見違うけどその違いの中から同じを見つけ出す力を育てること、それが大切だとムツボシくんは考えます。「乗り物は違うけど工夫や努力により同じなんだというところを探し出す力」をつけない限り、どうしても多数派でよかったとすぐに日本人は安心しちゃうのです。だから、もっともっと同じところを探し出す力が育つ絵本が世に出ることをムツボシくんは望んでいるのです。

 一度できあがった多数派の乗り物の人たちの世の中。そんな世の中なんてイリュージョンにすぎないから、今からでも視点を変えたら、つまり、身につけている乗り物が違うだけなんだよという視点に気付いたら、世の中も変わっていくよなんて楽天的なことはどうしてもムツボシくんには言えません。理解しあえたかのような顔を見せても、多数派は必ず少数派を仕切るからです。

 障害者雇用政策として全盲の視覚障害者も以前よりは企業に雇われる世の中になりつつはあります。ここに、ある視覚障害従業員の話があります。ようやく雇われて与えられた彼の仕事は、毎日の朝出社時と夕刻退社時に上司へメール連絡すること、それと週に1本自由テーマのレポートを提出することだと言います。確かに重度の視覚障害者がたまには雇われる世の中にはなったのではあります。互いにどんな対話が入社にあたりされたのだろうとは思います。重度の視覚障害者も企業に雇われる時代がやって来たことは、乗り物の違う人同士の対話がこの絵本のように進んだからではあります。しかしです。一見、多数派が少数派のことを理解したかのように見せて、実はこうやって少数派の口を封じてしまうことだってできるのです。この企業の障害者雇用の関係者は、きっと、見えないという乗り物を多数派の自分たちの世界に組み込めるかを考えた結果がこの雇用スタイルとなったと言うことでしょう。

 最後にもう一度絵本に戻ります。9ページです。「もし、見えない人ばっかりの星があるとしたら、きっとこんな感じじゃないかしら。」として作者は想像力を見せつけます。どこに何を入れたかどうかがわかるようにポケットだらけの服。声のいい人がもてる。手触りや匂いで服を選ぶ。どんなものでも触っていいのが当たり前。粘土メモを使う(カラオケに行ってきまーすという形を粘土で決めてあるなど)…、感性豊かな絵が紹介されていきます。

 この感性から、見えない人との人間関係をどうしたらいいのかへのヒントが生まれてくるのかがわかります。そこに止どまるのではなく、この感性をもって、見えない人と見える人との関係の中で、物を作り出す生産場面やサービスを受けたり提供したりする場面、恋する場面なども作者には絵にしてほしいと心底感じたムツボシくんなのでありました。

○参考:『みえるとかみえないとか』発売記念対談(アリス館)
http://www.alicekan.com/news/2018/07/post-115.html