「盲学校における盲人教師論のいま昔」
〜60年前の不要論を超えてシンボル化する盲人教師たち〜


宮城教育大学  長尾 博

●目次

T. 盲人教師は盲学校にはいらないと言われた時代があった
U. 60年前に指摘されていた盲人教師の短所とは
V. 盲人教師の短所を見事に克服した盲学校の職場同僚性
W. シンボル化する現在の盲人教師よ、それでいいのか!?



T. 盲人教師は盲学校にはいらないと言われた時代があった



 ちょうど今から60年前、『点字毎日』紙上にて繰り広げられた特集「盲学校に盲教師はいるかいらないか」をご記憶の方はおられるだろうか。この特集は昭和28年11月2日から同年11月23日までの4号にわたった連載であった。この特集を始めるにあたって、「本年の盲教育界に、盲学校に盲人の教師不要という大きな石が投じられ大きな波紋を描いた。そこで点毎では各方面の意見を聞くべく」、この連載を編んだと、昭和28年11月2日号(p2)にはある(以下、点毎からの引用には読点および漢字を筆者の責任で使用している)。ここにいう「盲学校に盲人の教師不要という大きな石が投じられ大きな波紋を描いた」とはどういうことなのか。「大きな波紋」とあるのだから、この特集以前の点毎に何か具体的な「盲人教師不要論」に関する記事があるのだろうとにらんではいるが、まだその記事とは出会えていない。しかし、「盲学校に盲人の教師不要という大きな石が投じられ」たとは、ただならぬ事態ではないか。きっと、このとき、盲教育界に何か事件があったのに違いない。そんなことを考えていたある日、「ああこの速さ・この広さ 言いたいこと・聞きたいこと」という河野憲利の自費出版本(1990年)の中に次のような件があることに気づいた。河野とは、昭和19年〜39年にかけて宮崎盲校長を務めた盲人教師である。昭和23年の盲学校義務制実施からまもなくのことだったと河野は書いている。全国の盲・聾唖学校長と地方教育委員会が東京で「盲唖教育運営協議会」が開催された。その場で、文部省の教員養成課長にむかって、佐賀盲のある校長が「今後はなるべく障害者を教員にしないようにしていただきたい」、「障害者は教員として不適当である」と願い出た。しかし、晴眼校長からはだれひとり反対意見が出なかったというのである。河野をはじめこの会に出席していた全盲・弱視の校長や教頭らは直ちにこの発言の問題性を指摘し、最後には当の発言者は前言撤回に至ったとある。おそらく、このときの全国レベルの盲唖教育運営協議会が盲教育界に「投じられた大きな石」だったのであろう。

 それにしてもである。「今後はなるべく障害者を教員にしないようにしていただきたい」、「障害者は教員として不適当である」とは穏やかではない。ただ、当時の状況も鑑みてほしい。盲学校では、義務制に伴い、戦前から長い歴史をもつ盲学校の多くが公立となり、新しい教育の掛け声の下、一般の地域校同等の学校の管理・運営が盲学校にも強く求められてきた。それに伴い、盲学校は一般校同様、見える教師の赴任先の一つにすぎなくなっていく。また、これまで以上に、カリキュラム的には、小中高の普通科教育の重視が強調されたであろう。これまでの盲人教師が担ってきた職業教育一辺倒の盲教育観では立ち行かなくなってきたのである。そこに現れたのが普通科教育を中心とする新しい盲学校運営に盲人教師はいらないという、今から思えば短絡的な発想だったといえる。

 さて、気になるのが特集の中身である。今から60年前、「盲学校に盲人教師はいるかいらないか」の議論はどのようであったか。この特集には7名の方々が勇気ある投稿をされている。うち6名は実名である。文部省特殊教育室、近盲組委員長、厚生省厚生課長、そして東京・名古屋・富山・匿名地の各盲学校管理職の方々からの寄稿である。全文を紹介したいところではあるがそうもいかない。そこで、ここでは、60年前、なぜ盲学校に盲人教師はいらないのか、または盲人教師の短所とは何と指摘されていたかについて紹介し、現在の盲学校を改めて考える機会としたい。「盲学校に盲人教師はいるかいらないか」という議論が60年前であるとすれば、「そもそも盲学校そのもの自体はいるかいらないか」という議論と直面しているのが60年後の今の私たちなのである。

U. 60年前に指摘されていた盲人教師の短所とは



 60年前の本誌特集での7氏の結論をみてみると、短所と長所を挙げつつも盲学校には盲人教師は必要であるという立場を述べたのは4名、絶対に必要であると強い主張をみせたのが2名、盲人教師は盲学校にいなくてもよいと意見を展開した方は1名である。堂々と盲人教師不要論を展開した唯一のこの匿名の元晴眼盲学校長は盲人教師を否定するにとどまらず、盲人自体を明らかに見下げてこう断ずる。「盲人は、盲学校経営者として、また、教師として、晴眼者に比して、より適格者であるとは決して思わない。仮に毎日、家族の一員として生活するにも適当な補助者がなくては、自他共に非常な不便さ、都合の悪い点がいろいろとある。だから、適格者であるといえないのはあまりにも当然すぎることである。従って、盲人教師が盲教育にぜひ必要欠くべからざるものであるとも思わない。ただ、一方に1人くらい在勤していてもまあ悪くもないと思う程度である。これらの問題は親しく接したことの少ない普通人が「盲人等はただ目の見えない普通な人と簡単に考えたり、あるいは、盲人自身がいかに普通人と差異があるかを自覚しなかったり、あるいは、教育と盲人職業との混同や錯誤等からくるそれと思う」(昭和28年11月9日号p24)。視覚障害者は三療をしていればよい、教育する側に立つような身分ではない、ましてや盲人が盲学校をこれまで管理してきたとはあきれたものだとこの御仁、明治以降脈々と続けてきた盲教育界における盲人先達の業績を一刀両断、今では考えられない気持ちいいばかりの差別観の陳述である。怒ってもしかたない。60年前、このような方が校長として日本の教育界におられたという事実のみをここからは学ぶにとどめたい。

 問題にしたいのは、盲学校に盲人教師は必要だが、短所もあるとする方々(もちろん、その短所を補って余り有る盲人教師の長所を強調している方々)が指摘している具体的な盲人教師の弱点である。晴眼教師と比しての短所に、数氏が次の諸点をあげている。

 (1)盲人教師は、学生・生徒の外的行動を観察指導することができないので盲人特有の諸習慣を矯正することができないこと。

 (2)盲人教師は、普通科の担任として、一般的には適格性がないと考える。新しい盲教育には指導上大きな障害があり、能率の問題があること。

 (3)盲人教師は、旅行・見学の付き添い、家庭訪問に十分の能率をあげられないこと。

 (4)盲人教師は、校務分担上から、分担できるものが極限されていること。

 ただし、上の短所(1)の「盲人教師には、盲人特有の諸習慣を矯正することができない」という主張に対しては、これこそ盲人教師の長所に転ずるという真逆の考えを複数の方が述べてもいる。盲学校は盲人を教育するところである。精神的な指導は盲人教師に人を得て、やるのが最も効果的だと思う。信頼しやすいからである。」という主張だ。

 また、本特集とは離れるがさきにふれた河野は本誌昭和31年7月27日号(p2-4)の「盲教師論」にて、盲人教師の短所を次の4点にまとめているのであわせて紹介しておく。

 (1)管理ができない。生徒が居眠りをしたり、教科書外の書物を読むというような弊害は、盲教師の教室で見受けられるという。

 (2)事務的な処理ができない。例えば、出席簿・成績簿その他人手を煩わす。

 (3)作業などの際、参加できない。掃除その他ほとんど無用の存在である。

 (4)行事など最も多忙な場合、ほとんど働きができない。
などである。

 以上、盲人教師がもつ60年前の短所とされた諸点を簡潔に現代風の表現でまとめると、

 A.盲人教師は、紙媒体の諸帳簿・書類等の読み書きが自力でできない。
 B.盲人教師は、講義・実習以外において、教室内の視覚的管理ができない。
 C.上記AおよびBから、盲人教師は、学級担任の仕事ができない。
 D.盲人教師は、引率や出張等外まわりの仕事ができない。
 E.盲人教師は、校内清掃や行事の準備等、内まわりにおいても働きが悪い。

の5点となる。

 では、これら5点の短所と指摘された扱いは、60年後の今の盲学校ではどのようになっているのだろう。

V. 盲人教師の短所を見事に克服した盲学校の職場同僚性



 私は昭和43年度より滋賀県立盲学校にて盲教育に触れてきた。初めは児童・生徒として、後半は教員として、あわせて40数年となる。この間、近畿圏が中心ではあったが、滋賀県以外に多くの盲学校教員としての知人を幸いにも全国に得ることができた。管理職経験はない。このような背景をもち、盲人学徒から盲人教師となった私の未熟な経験からではあるが、現在の盲学校における盲人教師論について私なりの意見を述べてみたい。

 いきなり結論である。言うまでも無い。現在の盲学校に盲人教師不要論は存在しない。この結論については説明を要しないだろう。では、さきに指摘のあった盲人教師の短所も存在しないのか?、そうではない。この60年間の盲学校運営がその克服方法をちゃんと編み出してきたのである。晴盲分け隔て無い教師間の協力・役割分担によって見事に短所といわれていた事柄は表に出ず、盲人教師の存在価値に傷をつけるような事柄とは写らなくなってきたのである。具体的にみていこう。

 まず、盲人教師は、担任業務は無理ではないかという短所(上記のA〜C)であるが、昭和40年代後半、すでに滋賀盲でも全盲の英語教員が見える教師とともに複数担任のもと私たちのクラスの担任を務めていた。複数担任制により学級担任業務も盲人教師の短所とはならないのだ。今で言う「支援を受けながらの自立」の原点ともいえることが昭和40年代の盲学校という職場にはすでに見られていたのである。
 次に、盲人教師は引率・出張などの校外活動に不向きという指摘(上記D)に対してだが、これについても複数引率制を取るなどして対応してきた。盲人教師が担任する修学旅行においてなど、晴盲にかかわらず担任が引率にあたる教育的意義が重視されてきた。例え、盲人担任が引率することで余計に人手がかかったとしてもである。盲人教師単独の出張などはどうか?、交通事情も、また鉄道やタクシーなどにおける支援体制も充実してきた昨今、全盲であっても杖と声による援助依頼を駆使すれば、かなりのところまで単独で行けるようになっている。「一人でこられたのですか、どうやってここまで?」などと私もよく会合でねぎらわれたものであるが、校外の集まり等に杖1本で出席することが、今では視覚障害者理解をその場に広げる絶好の機会ともなる。これこそ盲人教師にしかない長所ではないだろうか。

 残る短所は、校内にて清掃や行事の準備などで働きが悪いという指摘(上記E)についてである。私は生徒として盲学校に入学したその日から、弱視の生徒とともに掃除をさせられた。また教員になってから分かったのであるが、清掃や行事の準備を扱う会議では、必ず、盲人教師は晴眼教師とペアとなった役割分担表が配られた。「私の足音を聞いて椅子を6脚ずつもってついてきてください」「メジャーのこの端を押さえていてください」「準備オーケーの笛を吹きますので、それを合図にピストルを鳴らしてください」等々、今から思えば、見える教師は実にうまく盲人教師に仕事を見つけては与えていた。確かに準備等においては地味で縁の下の働きばかりの仕事が多かったかもしれないが、見える教師は自分たちだけで準備すればもっと手早くできる仕事でも、ちゃんと盲人教師とのペアで動いていたのである。全盲の生徒、全盲の教員ともにひとりぼっちで放置されないように目配り手配りをする。これが当たり前のようにできているのが盲学校だといえたのである。

 まとめて言おう。この60年間で盲学校の職場それ自体が、そして、盲学校をともに運営してきた晴盲教師の見事な連携が、盲人教師の60年前の短所のすべてを克服してきたのである。私はこの連携の力こそ「職場同僚性」と呼びたい。しかし、残念なことにこの同僚性にも、近年、翳りが差してきている。

W. シンボル化する現在の盲人教師よ、それでいいのか!?



 盲学校は、長年にわたって晴盲がともに連携しあって作り上げてきた職場であった。そこに同僚性が生まれ、互いの得意分野を自然と発揮し合う雰囲気を作り出してきた職場である。それは日本社会において希有な職場であったともいえる。このように盲人を受け入れ、毎年の人事異動にもかかわらずこの同僚性を築き続けてきた職場が盲学校の他にあっただろうか。だからこそである。盲人とともに働くとはどういうことなのか、盲人を受け入れて晴盲ともに能力を出し合うとはどういうことなのか、このようなノウハウが盲学校にはいっぱいつまっているはずである。それなのにである。なぜ盲学校は、この盲人とともに働くとはどういうことなのかを社会に向かって発信しないのだろう。全盲者の社会参加がいまだに困難を極めている今こそ、盲人とともに働くための理論と実際に関する盲学校からのメッセージを私は切望する。さきにみてきたように、盲人教師単独では短所と見える諸点も、職場同僚性の中、見事に克服してきた盲学校だからこそ、「全盲の方を雇っても、何をどうしてあげたらよいのか、全くわかりません」という事業主に向かって伝えるべき言葉があるのではないか。複数担当制、支援の中での力の発揮、一人でした方が一見早い仕事でも分かち合ってともに働くスタイルの優位性…。「長机を運ぶのに後ろの持ち手は盲人でいいじゃないか。前後とも持ち手が見えている人で固める必要はないではないか」、「長机の持ち込みが盲人による発案であるなら、盲人が先頭を切って前の持ち手を担当してもよいではないか。盲人が先頭を歩けるように視覚のみを補うヒューマンサポータをつければいいじゃないか。」、ここでいう長机をプロジェクトと読み替えてみてほしい。この種の発想こそ盲学校から発信すべき言葉だと思う。盲教育界では、盲学校の専門性とは何かといった議論がもう20年近くも続けられている。これまで誰も指摘しなかったのだが、私はこの「見える者と見えない者とがともに働くスタイルを築き上げてきた盲学校における職場同僚制」こそ消し去ってはいけない専門性だと思う。点字・歩行・指導法などの個別の専門性がすべて、「維持・継続・伝承」できないと嘆く盲教育関係者は多い。それは、盲学校の職場内に、個別のこれら専門性をベースで支えてきた同僚制という専門性の土台が薄れているからかもしれない。

 近年、経費削減という神の声(?)の下、クラス担任の盲人教師が引率から外されることがあると聞くにつれ、悲しみを感じる。個別の専門性の維持・継続のためにも管理職のリーダーシップが問われていると聞くが、担任している子どもたちとも修学旅行にいけないということがまかり通る同僚制のない職場にリーダーシップは権威としか映らない。

 近年、盲人教師に対して、「先生、職員室で仕事をしていてください。私たち見えるもので準備は済ませますから」という優しさ(?)が盲学校の職場にも広がっていると聞く。このエセ優しさが晴盲の対等な連携のやり方を模索することなく、見える教師の思考を停止させているそして見えない教師もその「優しさ」に唯々諾々である。そういえば、盲学校教員の晩年、私も言われた。「先生、車がないといけない出張の多い仕事や文書処理の多い校務分掌は見える者でやりますから」と。

 こうして盲人教師は盲学校のシンボルにすぎなくなる。赴任先の一つにすぎない以上、あえて、面倒くさくて粘り強い心のやり取りをしなければ生まれてこない同僚性などに、いまや見える見えないにかかわらず盲学校の教師は見向きもしなくなっているのではないか。盲人教師よ、点字器の使い方、音声パソコンの設定の仕方、手引きの仕方・され方、杖の使い方、物の管理の方法、食事のマナーのつけ方、そして点字版テストの作り方と答案の書き方…、これらを、あなたは、当事者としての技を見える教師に乞われるままに伝えるだけの存在に甘んじていいのか。盲人教師よ、視力を失ってからのあなたの体験を地域校に乞われて語る語り部に甘んじていいのか。これらは私が自問自答してきたことである。盲学校とは何か、盲学校でなければならないといいきれるものは何か、まさに盲人教師がその答えを見いだし校内外に発信せずしてだれがこの時代、それを考え続けてくれるのだろう。盲学校はいうまでもなく視覚障害者のための学校である。盲人教師よ、盲学校は過去も現在もそして未来もあなたの学校であり続くとは思えないか。

 明治期、自らその私財を投げ出して盲学校を創立された私たちの盲人先達は、この「盲学校における盲人教師論」を今聞いてどうお考えになることだろう。「艱難辛苦のすえこの地に根付かせた盲学校、俺たちは、見える教師のための職場開拓をしたのではない!」という先達の声が聞こえているのは私だけだろうか。

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