第11回 宮城の巻 その1  ウーメンとお城の街・白石には手で見つける歴史がいっぱい 〜ある墓石に東北魂をこの指でみた〜


 今回は地元、県南の白石探索。白石といえばお城とウーメンの街として有名である。だが、まずJR白石を降りて気づいたのは、やたら甲冑があちこちに飾られた街ということであった。もちろん駅にもある。和菓子屋の店先にも、そして食事をしたウーメンの床の間にもだ。

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JR白石駅でみつけた黒糸織りの大鎧に漆黒の兜



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片倉小十郎の釣鐘の馬印はここにはためいたのか、鎧の背中に白杖を刺してみた。



 「白石温麺」。この四字熟語、みなさんはご存じだろうか?こちら白石は油を一切用いずに製造される短い冷や麦状の麺で有名である。温麺と書いてウーメンと呼ばれている。ざるそばや冷やしうどんをつけ麺汁にうまく入れるのが難しい我々全盲にとって、この短いウーメンは実に優しいつけ麺である。



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やまぶき亭で腰のあるウーメン堪能、床の間にはここにも黒の甲冑。時代物の金銭登録機も飾られていた。



 さて、いよいよ「手で見つける歴史」の開始である。白石城は仙台藩の南の要衝であり、関ヶ原の戦い後、明治維新までの260余年間、伊達家の重臣片倉氏の居城であった。明治7年に解体されたが、現在見られるものは平成7年、伊達政宗の片腕として名をはせた片倉小十郎景綱の偉業を偲び、史実に忠実に全面木造で復元されたものである。



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これが復元された白石城の天守閣(三階櫓)



 この白石城を知るためにはまず、次の三つの模型を触るところから始めたい。

 駅を出ると真っ直ぐ西に約900mで白石城である。最初に触っておきたい模型二つはここ白石城入り口にある「歴史探訪ミュージアム」の2階にある。一つは本丸区域を構成する3つの御殿と3階建ての天守閣の位置関係がわかる城内模型(100分の1)である。もう一つは、白石の城下町全体の模型(500分の1)である。こちらは「御城並び御城下分間絵図」(1761年)を忠実に模型に表現しており、実に細かい。1軒1軒の屋根屋根や1本1本の木々までが触れられる。ただし、触れるにあたってはマナーを守り、十分慎重に、決して壊さないように注意してほしい。指を左右など横に動かす時には絶対に力を入れてはいけない。



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本丸模型、天守閣は本丸御殿からみて左奥にある。



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ここが奥州街道?城下を「コ」の字に囲んで奥州街道が通っている。



 ここまで触ったら、いざ天守閣に向かおう。するとその1階に、この三階櫓の模型がある。実によく全体像がわかる。三階にのみ窓の外に回廊があり、三階の屋根の両端には鯱(シャチ)の瓦が乗せられているという。


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1階にある天守閣模型をゆっくり触れてみる。



 全体像が頭に入ったところで、この櫓の細部から歴史に触れてみよう。まずは防御設備、弓矢や鉄砲のための狭間があちこちにあることに気づく。また、迫り出した床に設けられているのは石落としの穴だ。



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狭間に杖を入れてみた。白杖を火縄銃に見立ててズドーン!



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板を外すといまはアクリル板、下に迫る敵の頭上に石が落とせる仕組み。



 1階にはこの他にも自由に手に取れるものがあった。足軽鉄砲隊などがかぶる兜、日本刀、陣羽織、そしてまたしても黒の甲冑だ。

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兜をかぶって、この鞘を払えば…。あれっ、なんで抜けないの?



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こちらは在りし日の甲冑武者とのツーショット!



 2階に進もう。窓の格子や締め切りのための分厚い雨戸。急な階段などとともにこの櫓の建築で触っておもしろいのがこの一抱え以上もある太く横に渡した梁。


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2階に向かう階段途中でみつけた建物をささえるぶっとい梁



 3階は東西南北すべてを見渡せる見張櫓。いまは展望台である。


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町並みの奥、西には蔵王山が臨める。



 次は、天守閣を後にして武家屋敷「旧小関家」に回ろう。この旧小関家は、二方に沢端川(外堀)を配した中級武士の屋敷で、さきの「御城並び御城下分間絵図」にも「小関右衛門七」と描かれているという。


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川に落ちないように土橋を渡り、簡素な切妻造の棟門をくぐると小関家



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石の基礎の上に立つ平屋の茅葺きの小関家



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この時代の中級武家屋敷には式台のある玄関がない。台所から入るようだ。



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身分の高い来訪者はこの木戸(塀中門という)を通り、直接縁側から座敷に迎えたという。



 中に入ると、昔の雨具・蓑(みの)、囲炉裏・自在鉤と鉄瓶、時代めいた物入れなども触ってみよう。ただ、当時の台所道具や竈(かまど)などはなく残念であった。


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蓑(みの)を羽織って当時の盲人もこんなふうに歩いたのか…



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鉄瓶をつるした囲炉裏の仕組みをしっかり手で調べてみよう。



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いつごろの小物入れだろう、かってに探索していたら引き出しの中から黒くさびた鉄片が…。



 旧小関家を後にする前にぜひ屋敷の周りをひとまわりしてほしい。庭木がいっぱいである。名前が書かれているので木に詳しくないものにもありがたい。川に降りる階段もあり舟をもやったらしい杭もあった。


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平成3年白石市に寄贈されるまで使われていたのか、薪小屋もある。



 ここ白石における「手で読み取る歴史」の締めくくりは世良修蔵のお墓である。旧小関家からはタクシーを呼んでもらうとよい。ここ白石城は、これまで語ってきた片倉氏の歴史の他に、なんといっても明治維新期、奥羽越列藩同盟が結ばれた地としても有名である。故無く、薩長新政府からは「朝敵」、賊と汚名を一方的にあびせられ見事闘い敗れた歴史があるのだ。明治元年、仙台・米沢藩の弁明も聞かず武力征討を強行した奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵(長州藩士)は福島にて暗殺される。この世良の墓が白石川の北岸にある。写真をよくみてほしい。墓碑銘にあった「賊のため」という文字がだれかによって消されたという。墓石を削った跡が今もしっかり触れられる。俺たちは「賊」ではない!「「白河以北、一山百文」と蔑まれた東北人の反骨魂が指から伝わる瞬間であった。


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世良修蔵の墓。「賊のために惨殺される」とでも書かれていたのか。「賊のため」の文字が削り落とされている。



●参考サイト:白石城・歴史探訪ミュージアム・武家屋敷
http://www.shiro-f.jp/shiroishijo/museum/index2.html

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