第21回 宮城の巻 その7  町歩き旅だから出会えたおもてなしの心、でも小京都・村田町は点字ブロックのない町だった。

 みなさんは、宮城県にも小京都とよばれる町があることをご存じだろうか。それがここ村田町だ。町の大部分が緩やかな丘陵地、東・北・西の三方を山に囲まれた盆地、そして市街地の東部を川が流れるあたりは確かに京都と似ている。仙台からは東北本線にて「大河原駅」→宮城交通バスにて村田町に到着。今回はすべての行程を足で訪ねる町歩きガイドさんとの5月の旅である。万歩計を準備して、いざ町歩きの始まりだ。

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宮城交通バス村田営業所に到着、ここが本日のスタート地点、まずは万歩計を‘0’にリセット…




 まず最初に訪れたのが白鳥神社だ。歴史はかなり古い。その起源は景行天皇まで遡るという。あの卑弥呼の時代よりまだ昔ではないか。この日は、偶然、有名な「奥州蛇藤まつり」の日であった。

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朱塗りの御神橋を渡ってみた。子ども御輿が出るという。傍らを稚児が走り抜けていく




 祭の名前ともなっている「蛇藤」とはどうやらこれのようである。二の鳥居となる赤い鳥居を潜ると、参道をまたぐ格好で斜めに延びる古い杉があった。それに高く50mほど巻き付く藤の枝。満開でないのが残念である。平安後期の前九年の役、源義家の苦況を救ったという赤く燃えた大蛇。それがこの「蛇藤」に姿を変えたという「蛇藤伝説」が残る。

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今年は花の時期が早かったらしい。祭当日だというのに探る範囲に藤の花はない(樹齢800年、2代目のようだ)




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かすかに残る藤の花が樹上にあった




 白鳥神社には神木が多い。さすが古い神社である。蛇藤のすぐ横には樹齢3000年ともよばれる「縄文けやき」がある。樹高24m、直径2.35mという

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これが縄文けやきといわれる大けやき。根元はコブコブであった




 続いて、石段を登って右側にそびえるのが大銀杏。樹齢1000年以上という。

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これも神木・大イチョウ。太さを探ってみた




 そして、拝殿に続く本殿の裏には、ここが北限とされる白樫の巨木がそびえていた。推定樹齢はこれまた1000年以上とされている。

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うーん、樹肌の手触りや様子の違いからコメントができない。これでは手でみる旅の案内人失格である




 けやき・銀杏・樫の木の違いが触ってまったくわかんないよ、としょげていたら脇から声をかけられた。観光協会の方だろうか、白鳥神社の名前入りの落雁をいただいた。

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思わぬおもてなしに感謝。祭にあわせて地元和菓子店にて特注の落雁




 荒川沿いに10分、次に向かったのが龍島院。京都の「詩仙堂」の庭園美を呈した池泉鑑賞式庭園があるという。

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ここが龍島院本堂(曹洞宗)




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これが池泉鑑賞式庭園、ツツジがきれいに咲いていた




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杖で池の水をトントントン。エサの時間と間違えたか、鯉が寄ってきた




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ご住職の奥様に招かれて縁側へ。蕗の砂糖菓子によもぎ餅でここでもおもてなし…




 次は歴史を訪ねて足を向けた。江戸時代に水運を生かして山形などと肩を並べて紅花の集積地となって栄えたのがここ村田であった。紅花問屋の大商人の土蔵造の店舗・「店蔵(たなぐら)」や「なまこ壁」が連なる古い町並みが残っていることから、2014年、県唯一の国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたようだ。

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こちらは魚屋、壁の菱形模様や角の模様の変化など手でとてもよく「なまこ壁」がわかる




 江戸期の紅花大商人「山正(やましょう)」の店蔵が記念館となっていた。店蔵とは、南向きに彫刻美ある門を構え、京町屋のように奥に長い店舗兼住居が延び、最奥部の家内に土蔵がある造りとなった独特の建前である。

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山正の店蔵南側、「薬医門」といわれる門前。今は記念館となっている




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ここが家内に特別に造られている土蔵、入り口の扉の分厚さに驚く




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重要書類、金庫、仏壇などが土蔵に納められていたらしい。開くわけないが金庫に手をかけてみた




 仙南地方では、宝暦年間(1751〜1764)頃、盛んに栽培されるようになったのが紅花である。村田は紅花交易の中心地となり、商人は、遠くは山形や岩手の水沢からも集荷し、上方や江戸の紅花問屋に送った。売った代金で、様々な商品を買い集め、帰郷した村田で売った。このような商法を「鋸商い」というらしい。私の古里近江商人と同様である。記念館を管理されていた方に近江商人とのつながりを尋ねてみた。やはり、大きな影響を受けているという。近江商人の「三方よし」という思想はここ村田にも息づいていたと明言されていた。

 収穫した紅花は「紅餅」の形に加工された。紅餅にする理由は、長期保存することと運びやすさ。また、染料の量を調整しやすくするためとされている。

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これが貴重な「紅餅」に加工された紅花。これ1枚が小判1枚と交換されたともいう




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酒屋「山専」、ここも元紅花問屋、珍しい小麦焼酎を土産に買った。店舗前の自販機もポストもなまこ壁模様だ




 紅花で栄える前の村田の歴史を知るために、「歴史みらい館」を次に目指した。次の写真を見てほしい。なんと歩道に魚が泳ぐ川の模様が描かれている。源流だろうかこの歩道模様の始まりには山を模したのか枯れ木があった。川は途中から太くなり、「歴史みらい館」へと私を案内していく。これをたどればゲートの向こう、左側に「歴史みらい館」はあるとガイドさんが教えてくれた。

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この歴史ゲートをくぐれば左が目的地。村田町さん、これ、もしかして点字ブロック代わり?ちょっと無理ありますね




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杖を川にこすりつけての方向確認、このあたりで曲がるはずだがこの模様の凹凸だけではわからない




 村田町歴史みらい館は手でみる私たちのお仲間にはおすすめである。多くのものがガラスの向こう側に展示されてはいないのだ。

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近くの古墳から出土した縄文土器のレプリカ、持ち上げて確認できる




坂下古墳の箱式石棺の模型、分厚さ・深さが手に取ってわかる

 この他、地元に伝わる舞踊が人形を用いて衣装もそのままに再現されており、ビデオ音声と合わせてみると、とてもよくわかる構成であるなど、面白いものに多く触れられる。

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宮城県から岩手南部にのみ伝わる「かま神」様。竈の上の棚に飾ったという。粘土作りだが目にアワビの貝殻が埋め込んであった




 お昼は、この歴史みらい館のすぐ隣にある道の駅がいい。村田はそら豆の町でもあった。

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そら豆をねり込めた産物が面白い。そら豆うどん、そら豆コンニャク、そら豆羊羹など。キャラクターはそら豆三兄弟であった




 地元の和菓子店、阿部菓子店に立ち寄って、土産に梅羊羹を購入。すると、本日3度目のおもてなし、上用饅頭を2個もいただいてしまった。村田町はまさに「おもてなし」の町である。

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近くにあったそら豆椅子にて、数々のおもてなしに思いをはせる私であった




 さて、今回の町歩きもいよいよ終わりである。町の中心部なのか町役場前から高速バスにて帰仙予定。バスの時間待ちに役場周辺を探索してみた。それにしても歩道にはまったく点字ブロックがない。もしかして、まさか町役場にも点字ブロックなし?なのか…。当たった。向かう道、入り口階段、どこにもない。今となればある意味貴重である。

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村田町役場の階段。このあたりに階段があったはずだが…、思わず腰がひけた




 唯一見つけた点字ブロックはここだ。役場前の交差点、しかし、こんな点字ブロックの敷き方も珍しい。というか、私は初めて見た!

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見えない私もこの足型で信号を待てというのか。もちろん音響信号なんかじゃないのは言うまでもない




 実は、仙台に戻った翌日、村田町役場に電話をして尋ねてみたのだ。「どうして点字ブロックが役場にもないのですか、何かそれなりのお考えがあるのですか?」と。答えはシンプルであった。「改築することがあればつけたいと思います」。

 役場前に点字ブロックができたからといって視覚障害者の社会参加がすすむわけでは当然ない。村田町のこの姿勢を機に、点字ブロックが本当に必要な道・箇所はどんな場所なのかを私たちも考え直してもよいように感じた。鉄道駅のない村田町である。視覚障害者が一人歩きで最も通る可能性のある道ってどこなんだろう。それは、きっと役場に向かう道なんかじゃないのである。「私たちの町は‘福祉’しています」と点字ブロックの総延長がまるでやさしい町の度合いになるとでも思っている勘違い市町村よりは潔いのがここ村田町であったのだ。

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仙台行き宮城交通高速バスがやってきた。ガイドボランティアとはここでお別れ。本日の手と足の旅、しめて‘8781’歩の旅であった




●参考サイト:村田町
 http://www.town.murata.miyagi.jp/



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