第22回 山形の巻 その3  湯煙に元気なお年寄りの声と将棋の駒があふれる街、山形県天童市に王手!


 夏の終わりに訪れたのはここ天童市。言わずと知れた「湯煙とフルーツ、そして将棋の駒」の街である。まずは、9割以上のシェアをもつこの将棋の駒がここ天童にあふれている様子から紹介しよう。

写真1
奥羽本線JR天童駅ホーム、乗車位置を示すマークが駒であった。


写真2
改札を抜けて見上げた時計が将棋の駒の顔だった。

写真3
出迎えてくれたゆるキャラだってこの通り駒から手足が伸びた「こま八」くん。手には花笠、なぜか左ほっぺにお星さま。




 この「こま八」くんの場所にて、観光ボランティアのSさんと対面。リタイア後も趣味の山歩きを続けるという健脚のSさん。「すべて歩いて回りましょう」と宣言されたのでありました。

 さっそく向かったのは駅1階にある「天童市将棋資料館」。

写真4
あれれ、白い杖の来館者、珍客にびっくりしてのお出迎え。




 朝一番だったのか、まだ掃除機の音もする館内に入るとでっかい「左馬」が歓迎してくれた。

写真5
縁起物の「左馬」は、馬という漢字が鏡文字で左向きに書かれている置き駒である。このポーズ、左馬に見えるかしら…




 残念ながら触れるものは少なかったが、それでも日本の将棋の歴史、世界にあった将棋に類似したゲーム、駒の作り方など、説明を聞くだけでもなかなか楽しいものである。中でも触れてわかったことを書き留めておこう。まずは駒の作り方。マキ・カエデ・カツラなどが材料(高級品はツゲのようだ)。

写真6
材料を輪切りにし、それを駒の幅に細長くカット、駒の五角形の棒を作る。それを金太郎飴のように1枚ずつの駒に切り分けていくようだ。

写真7
駒への漆による文字入れ方法には2種、彫り駒式と盛り上げ駒式がある。




 もうひとつ、わかったこと…。それは歴史的には現在の一般的な本将棋(縦横9マス、8種の駒)より以前にいくつもの古将棋と言われる将棋があったことである。

写真8
古将棋のひとつ、「泰将棋」。縦横25マスの盤に93種の駒、とても覚えきれない。王様の位置には「自在王」という万能の駒がある。




 この泰将棋の93種の駒の中に、「盲」という字がつく駒があった。「盲熊」「盲猿」「盲虎」である。少し調べてみてわかったのだが、これら「盲」のつく駒はなんと前には進めない駒だという。うーん、ひとまず納得のネイミングであった。

 「さあ、歩きましょう」とSさんの声に促されて私たちはいよいよ街歩きへと出かけた。道に出るとまたしても将棋の駒があふれていた。予想通りのこのマンホールを見てほしい。

写真9
紅葉は市の木である。しっかり王将と左馬が図柄になったマンホール。




 歩道で見つけた「ここまでやるか」の一コマ。それは詰将棋がプリントされた歩道だ。「どこからですか?」と元気なおじいさんの大きな声がすると思えば何やら1枚の紙を手渡された。すぐそばのお店のご主人らしい。この紙、この詰将棋の解き方が書いてあるという。わかるはずもないがひとまず考えてみた。

写真10
立ち止まって考えるための椅子まで備え付けられている歩道の詰将棋。

写真11
詰将棋だけじゃない。歩道には駒による道案内図もあるのだ!「歩」の駒が矢印の代わりのようだ。




 天童は芭蕉も訪れた地。元禄期、ここ天童にも芭蕉の弟子たちが多くいたのだろう。その証拠とも言える石碑があった。芭蕉が天童を通り立石寺に立ち寄ったのが1689年5月末、それから約30年後にこの石碑が立てられたという。すでに300年が過ぎ、彫られた文字も触って読み取れなかった。

写真12
 「古池や…」の有名な句が彫られていたという翁塚。


写真13
句碑が散在する当時の羽州街道を芭蕉気分で歩いてみた。

 羽州街道を少し逸れたところにこの地の歴史館とも言える「旧東村山郡役所資料館」があった。和洋混在、3階建ての明治建築、なかなかおしゃれな建物のようである。



写真14
触れる物はないがこの地をめぐる争いの歴史がよくわかる展示は興味深い。




 今度は舞鶴山に登ってみる。標高2、3百メートルほどの小山だが、天童氏が開いた山城跡が残るという。幕末には、ここ天童はあの織田信長の子孫が領主となっていた。その縁もあってだろう、信長自身をご神体とする日本最初の神社「建勲神社」が建立されている。

写真15
信長をご神体とする神社は日本に3箇所、そのうち日本最初のものがここ天童の建勲神社(全景)。




 宮司のKさんは信長以降の織田氏の歴史をじっくり語ってくださった。そして、「もっとここが日本初の信長をご神体とする神社であることを国民に知ってほしい」と話された。そのためにいろいろと企画を練っているという。なかなかのアイディアマンの方である。信長のご神体とも言える絵が祭られていた。ただ、私たちの日本史の教科書でおなじみの信長ではない。ここ天童に伝わる信長こそリアルな信長であるという。

写真16
教科書でよくみる信長像(左)、真実の姿に近い信長像(右)

写真17
K宮司に甘えてご神体前でツーショット




 舞鶴山をここ建勲神社まで登ったなら、もう少し足を伸ばしてほしい。この中腹には有名な「人間将棋盤」があるのだ。4月末に毎年開かれる桜まつり当日、プロ騎士を迎えて対局はあるという。選ばれた男女は鎧兜や腰元姿で人間駒となるのだ。



写真18
ひとマスが150cm×120cmの人間将棋盤、私とSさんが王将の位置で向かい合ってみた。

写真19
桜まつり当日の対局風景の写真。一度この日に訪れてみたいものである。




 舞鶴山を北に降りる途中、ぜひ覚えておきたい歴史上の人物の銅像と出会える。その人物は「吉田大八」である。1868年2月、戊辰戦争において、天童藩主織田信学(のぶみち)は官軍(薩長軍)から奥羽鎮撫使先導の大役を命ぜられ、中老・吉田大八は先導名代となった。図らずも官軍となった天童藩は、庄内藩と攻防の末焼き討ちに遭い、鎮撫軍は苦戦。その後、奥羽各藩で結成された奥羽列藩同盟から、天童藩は奥羽諸藩の裏切り者扱いとされ、大八の身柄引渡しを要求された。そして、大八は米沢藩に自ら捕らえられる。6月18日、天童の観月庵で切腹した(享年37歳)。しかし、世はすぐに官軍の世となったのであった。大八は天童藩の下級武士たちに将棋の駒作りの技法を身につけさせた人物ともいわれ、また藩校の督学(校長)を務めた人物でもあった。

写真20
吉田大八の銅像、汚名返上の時代がすぐそこまできていたのに…、残念な死である。




 見どころ満載の舞鶴山。ここまで約2時間歩き回ったこととなる。お腹もへるはず、そこで紹介されて向かったのが「水車そば」という老舗である。なんと店の前に水車があり、いまも木の臼にてこの水車でそばを挽いているという。ごつごつした太切りのそばは噛み応え、食べ応え満点。

写真21
おじゃまします水車そば。これが元祖板そば(右下)。




 このそば屋さん一帯が湯煙り立つ天童温泉街、ここまで来て湯につからない手はない。その名も「ホテル王将」の日帰り温泉(700円)に行くこととした。全盲の一人客だったが、戸惑うこともなく、湯殿に手引きしてくれたのには感激した。脱衣籠の棚、そこから湯船に行くためのドアの位置、そして入っての湯船・洗面器などの位置、すべてこちらのお願い通りに教えていただいた。見守っていただき2度ほど一人でも歩けるかを試した。20分後に迎えにきてほしいことを伝えるとこれまたあっさりオーケーが出た。実に柔軟な対応に感謝である。これなら全盲ひとり温泉の旅、何も怖いところはない。

写真22
男湯の前で手引きしてくれているフロントの方とパチリ。さすがショウギ(将棋)の天童、湯上がりの休息場もショウギ(床几)だった。




 実は、ネットを見ていてどうしても行ってみたかった場所が天童にはあった。レコードサロン、それは倉津川を渡った先、市民文化会館内の一室にひっそりあった。

写真23
倉津川には駒の名前の橋がかかっている。橋の大きさと比例してのネーミングなのか、「歩橋」「銀将橋」「王将橋」の3つを渡ってみた(左からの順)。




 サロンの重厚なドアを開けると、「いらっしゃい」とまたしても元気なお年寄りの声、私よりも一回り以上は先輩の男性たちがアフタヌーンのひとときをゆったりと過ごしておられる雰囲気が肌に伝わる。すべて全国から寄贈されたというレコード数万点とステレオセット、私もわくわくしてきた。私がこの日、レコードの山から掘り出してもらった曲を書いてみると歳もばれるが、「僕の胸でおやすみ」(かぐや姫)、「甘いたわむれ」(沢田研二)、そしてベンチャーズであった。わが故郷・滋賀のグループ「シグナル」の「二十歳のめぐり逢い」「哀しみのプラットホーム」はさすがにマイナーだったのか所蔵なし、残念…!もし、みなさんのお家に眠るばかりとなってしまったレコード盤があったら、こちらに寄贈、もう一度息を吹き返すチャンスをレコードたちに与えてあげてはいかがだろうか。

写真24
ジャズからクラシック、歌謡曲まで約18000枚がリクエストに応じていつでも聴くことができる「レコードサロン」。

写真25
33回転の4曲入りのシングル盤があったのか。ベンチャーズ、「十番街の殺人」を聴きながらサロンの世話役Aさんとツーショット。




 コーヒー片手に時間が経つのも忘れてしまいそうなこのサロン、後ろ髪を引かれながら仙台に戻ることとしたのであった。

 五角形の駒にあふれた天童だったが、耳に残るのはお元気なお年寄りの男性たちの声だった。ガイドのSさん、宮司のKさん、レコードサロンのAさん、そして気軽に声をかけてくださった店々のご主人…。手に触れての感動には正直欠ける旅ではあったが、実に暖かいおもてなしの言葉が耳から心に直接触れる旅であった。

写真26
仙台に戻りひとり反省会はどの店で?天童だったから「天どん?」、それともやっぱ「王将?」かな。




 [付記] 時間が許せば若松寺にも足を伸ばしたいところでした。若松寺は、花笠音頭で「めでためでたの若松さまよ」と謳われている関西人の私でも名前だけは知っているお寺。古くから「若松観音」の愛称で親しまれ、縁結びに御利益があるお寺といいます。このお寺のかなり精密な模型が天童駅すぐ隣のパルテ観光物産館2階にありました。訪問される視覚障害のある方はぜひこちらの模型をしっかり触ってからお参りにどうぞ!

写真27
若松寺観音堂の模型

写真28
若松寺金銅聖観音像懸仏



[参考サイト]

○天童観光ボランティアガイド(天童市観光情報センター)
http://www.bussan-tendo.gr.jp/?p=log&l=216040

○吉田大八
 http://www.jvnet.or.jp/~badz9005/tendo/yosida.htm

○レコードサロン(天童市市民文化会館)
http://www.city.tendo.yamagata.jp/tourism/kanko/tendorecordsalon.html

○若松寺と出羽名刹三寺まいり(山形県ホームページ)
http://www.pref.yamagata.jp/ou/somu/020020/03/mailmag/special/yamagatabiyori/jakusyoji.html




indexに戻る