第29回 静岡の巻 その2  触れるだけでわかった弥生の村とその生活〜静岡市立登呂遺跡博物館


 第2次世界大戦中の昭和18年、静岡市では登呂の水田地帯に軍需工場が建設されていた。そのとき、水田の下1mの採土から多くの木製品が出土したのである。これが紀元後1世紀ころの弥生後期の村の跡であった。この村には、北東から南西の方向に広がる少し高台の地を利用した住居12棟、高床倉庫2棟が建っており、8haの水田が、その南側に広がっていたのである。これが国の特別遺跡・登呂遺跡であり、出土品は登呂博物館に、発掘跡地は登呂公園として現在管理されているのである。

写真1
登呂では建造物はすべて南向きだったと言う(遺跡跡に復元された倉庫と住居群)




私が静岡市立登呂博物館訪れたのは10月末。事前に「見えないこと」を伝えた上で博物館所属のボランティアさんによるガイドをお願いしておいた。博物館の担当の方も、ボランティアの方も視覚障害者への対応には慣れておられるようで、とてもスムーズにガイドは始まったのであった。

写真2
今回お世話になったボランティアガイドのMさん




 ここでの見えなくても楽しめる方法とはこれである。まずは館内の展示室にて、レプリカを中心とした手と耳による弥生時代のイメージを重文頭に作り上げる。学習用に多くの出土品が事由に触れられるのである。発掘現場を訪れるのはこの後である。さきほどイメージした出土品がどこに埋められていたのか、さきほど外観を観察した建造物が実際の外の空間にどのように配置されていたのか、公園を歩きながら頭の中の地図に書き込んでいくのだ。この作業がたまらなく楽しいのである。

写真3 
まずは卑弥呼の姿?貫頭衣を着てみた!(登呂でも女性が着ていたかはわからない)




 弥生の生活を体感できる館内展示室に入ると、高床倉庫がシンボルのように立っていた。

写真4
夜になった光景。倉庫の上に月が出た




 実際にこの高床倉庫のはしごを昇って見てわかったことがある。はしごは体を横向きに足も横にはしご段を踏んで昇るようになっていたのだ。稲の束を抱えてもこれなら昇れる。また木材の8割は杉の木だと言う。屋根はヨシで葺いていた。

写真5写真6
高床倉庫を横向きに昇ってみた(左)。こちらは発掘跡に復元された実際の高床倉庫(右)




 登呂遺跡の建造物では、柱穴の数が倉庫に比べて多い建物跡が出ている。高床倉庫に似ているが実際に復元してみて倉庫ではないことがわかったと言う。建物の左右に「棟持ち柱」と呼ばれるつっかえ柱があったのだ。また、この建物には地面から柱を這い上がってくる鼠を阻止するための板、鼠返しが付いていなかったのだ。どうやら祭殿ではないかと推測されている。

写真7
こちらは祭殿か?棟持ち柱が特徴の建物の復元




 登呂遺跡と言えば水田跡。稲穂をお米にする当時の作業工程も体験できる。

写真8
石庖丁で稲穂を切り取る(なかなかうまくできなかった)





写真9写真10
籾すり(左)。振り上げて籾殻を飛ばす(右)





 この登呂遺跡では、100mほど北のため池のわき水を水田に引き入れる仕組みもしっかり作られていた。田んぼの1区画は小さくて縦横3m・5m四方だったようだ。

写真11
まずは模型で水路の仕組みを単作。木材で壁が作られた水路




 実際に外の復元された水路を観察すると、水は北から運ばれてきた後、南と西に分岐し、小区画の水田ごとに水の取入れ口も作られていた。

写真12 
外の発掘跡に復元された水路(2枚)




写真13
2種類の田下駄が出土(踏み板に高台と呼ばれる縦の棒があるものとないもの)




 弥生の村には楽器が響き、絵やデザインを年長の熟練者が次世代の子どもたちに、まるで今の熟のように教えていたのではと思うような出土品もあった。

写真14
椀型土器




写真15
台付き甕形土器や壺形土器に描かれた模様




写真16
共鳴箱の付いた6弦のお琴なのか?(ことじは見つかってはいない)






写真17
儀礼用の椅子なのか、なんと組み立て式になっていた!





写真18
こちらの高坏も組み立て式(土器ではなく木製は珍しい)





写真19
木製のしゃもじ(お箸やおさじは見つかってはいない)




 黄昏時、展示室を出て発掘跡を歩いていると、まさに往事の音が聞こえてきそうであった。村を象徴する住居だが、竪穴とは言えないのだ。70cmほどの盛り土をし、それから床面を掘り下げることで水が湧いて来ないと言う工夫なのだ。その上に耐震設計なのか太い4本柱でしっかり建てられた。屋内には炉の上に「火棚」と言う物干し場も作られている。学生時代に習った話には出てこなかった工夫の数々である。この村に50人ほどが暮らしていたのではと思われている。Mさんの話はとても興味深い。…この村はわずか100〜150年で水没してしまいます。また、「くしろ」と呼ばれる腕輪や指輪以外、青銅器はこの村からはほとんど出て来ません。天竜川以東では銅鐸は発掘されないようです。「ひしゃく」と言うのですが鹿の骨を焼いて占ったこともわかっています。…Mさんの話は続いていた。私の耳朶を打つ往事の音はますます大きく鳴り響き続けるのであった。

写真20
復元された住居の中、火棚がある




○静岡市立登呂博物館/弥生時代の農耕集落である登呂遺跡の出土品を展示
 http://www.shizuoka-toromuseum.jp/



indexに戻る