第4回 東京の巻 その2  模型と実物大復元で細部まで観察しつくせるか!?「江戸東京博物館」


 最寄りの駅となる両国はさすがお相撲さんの街。西口を出ればわずか数分で江戸東京博物館にはたどり着くのだが直行するのはちょっと待ってほしい。まずは駅前のこの「力相撲」と名付けられていたお相撲さんの象を触ってみよう。頭の髷(まげ)の形や回しの締め方、回しを1枚しか取れていない様子などがまさに手に取るようにわかる。



写真1
左手の回しは1枚回しとなっている両国駅西口の力相撲象



 国技館を超えて下りの動く歩道を過ぎるとすぐ左手に見えてくるのが江戸東京博物館だ。障害者・介添え者はともに無料で入場でき、また音声ガイドも実質無料にて貸し出してもらえる。



写真2
これが江戸東京博物館の全景



 まずは6階からの見学となる。6階で入場者を迎えいれてくれるのが江戸日本橋の復元である。欄杆から触っていこう。「萬治元年六月吉日、大工の椎名なにがし」という文字が彫られている。また5階ではこの日本橋の模型がある。そして、復元橋の下側の探索に行こう。釘なしでこれだけの重量を支える丸太の組み方の一部が触ってわかる。白杖があるのなら、手の延長として上の方の構造物の位置も探ってみよう。日本橋の模型がこことは離れた5階にあったのが残念である。まず模型を触ってから実物大の復元を触りたいところであった。橋を渡る6階にも模型がほしいところである。



写真3
欄杆を触ったら橋の幅も歩いて確認、復元された長さは当時のものの半分のようだ



写真4
日本橋の模型、まずはこの形を頭に入れておこう



写真5
5階、日本橋の下、橋裏の構造を杖も使って探索、ここがバッテンになっているのなら、その上に倍の高さがある



 この博物館には所々に体験コーナーがあり、といってもその多くがどういうわけか力がもとめられる体験となっている。6階では江戸の火消しの纏(まとい)を持ち上げてみる。垂れているのは布ではなく皮のようだ。



写真6
 「す組」の纏(まとい)、約3キロもある



 5階に回って、千両箱の持ち上げ、肥桶かつぎの体験もしてみよう。




写真7
天保小判の千両箱はなんと14キロ(箱だけでも3キロ)。思ったよりも箱は小さかった。



写真8
肥桶かつぎ、リアルな下肥もちゃんと入っている(26キロ)。



 点字の教科書で言葉だけで習ったことのある歴史的建物物の模型に触れるのも楽しみである。コンドル設計の鹿鳴館、芝居小屋の中村座、12階建てだった凌雲閣(1923年関東大震災にて倒壊)、神田明神の山車などじっくり触ってみよう。ややつぶれかけているが点字で数行の説明文もついている。弱視の人ならこれら模型よりも遙かに大きく色彩も鮮やかな復元も見てみよう。



写真9
鹿鳴館、伊藤博文らが短い足でマダムと踊った部屋はどの当たりかな?



写真10
中村座の芝居小屋、役者の名前を掲げる招き看板の位置も触ってわかる



写真11
触ってはじめてわかった凌雲閣の形(10階までは総煉瓦造)、忘れないうちに音声でメモを撮っている



写真12
神田明神の山車、杖を餅、刀を背負う人物が上に乗っている、山車には「神田須田町」の文字が確認できる



写真13
弱視の人なら、視覚的なイメージをつけておこう、中村座



写真14
神田明神の山車、触れないが、こちらも見える人はじっくり見てイメージを固めよう



 喜多川歌麿などの浮世絵の手でみる絵画も2点あったが、こちらはやや触りづらい。もっとレリーフのように深い凹凸で仕上げてほしかった。



写真15
 「糸屋小いとが相」(喜多川歌麿作)、線が彫り込んであるだけの凹凸のため触りづらい。もう少し立体感がほしい



 次は乗り物体験コーナーである。こちらも手でじっくり触れる模型と実際に乗り込める復元があり、見えなくてもイメージすることが容易である。大名行列の籠(かご)、人力車、三輪車など、まずは模型を触ってから「ここの素材はなんだろう」などと考えて実物大の復元乗り物にまたがってみよう。



写真16
1870年日本ではじまった人力車の模型、当時の車輪は模型ではわからない




写真17
復元した人力車、当時の車輪はすでにゴムタイヤだったのかな??



 昔の音を楽しむコーナーもある。ボタンを押すと受話口から音が流れてくるのだ。江戸の職の音として、江戸風鈴や軍道紙の紙漉、指物師の仕事の音。中でも、大正になってのラジオの登場のコーナーは外せない、ぜひ聴いてほしい。「早慶戦実況放送」(1930年)、「ラジオ体操」(1932年、当時のピアノ伴奏の法が私には心地よかった)、「基礎英語講座」(1925年)、「子どものうた唱歌隊」(1932年)、前畑がんばれの「ベルリンオリンピックの放送」(1936年)、「料理番組」(1935年)、そして「天気予報」(1936年)などが聴ける。天気予報は絶品であった。「朝、風向きは西より、午後には、ことによると北にまわり夕方には暴風雨となるでしょう」ときた。「ことによると暴風雨となる」というフレーズを淡々と流すこの時代の落ち着きぶりに少しあこがれを感じたところである。



写真18
ここは見逃せない、ラジオの番組が聴けるコーナー



 日本初の公衆電話もおもしろい(明治33年)。市内通話のみで5分15銭だったようだ。ハンドルを回して交換手を呼び出しつないでもらうのだが、コイン投入口が2つある。10銭硬貨を入れると「ボーン」と聞こえ、続いて5銭硬貨を入れると「チン」と聞こえたようだ。この音で支払いを確認した交換手は番号を尋ねてつなぐという仕組みだったようだ。液晶などのビジュアルな確認方法はもちろんなかった明治時代ではあるが、なんでも目でみて確認したがる今の時代にあって、もっと音による確認を組み合わせたシステムが見直されてもいいような気がした。



写真19
これが京橋(現在の銀座1丁目)にあった日本初の公衆電話ボックス



写真20
コインの投入口が10銭用と5銭用の2つある



 6階、5階と見てきた常設展の出口付近にあるのが、昭和10年ころの板橋の民家の復元である。玄関からおじゃましいろいろと当時の家具を触ってみることができる。ここでは、まず、下駄箱の中にある戦前の下駄、ちゃぶ台や和箪笥、台所の木製の冷蔵庫、ガスのお釜、そして、おもしろいのが写真24の鉄鍋である。なぜかシフォンケーキを焼くよなドーナツ型、もうひとつなぜかフタにはしっかり三菱のマークが浮き上がっていた。昭和10年にシフォンケーキはないだろうから、このような形のパン焼き鍋のようである。



写真21
昭和10年ころの板橋の民家の復元



写真22
当時の下駄、そういえば子どものころあったっけ



写真23
木製の冷蔵庫、氷を入れて冷やしたという話は聞いていたが



写真24
なぜか、フタには三菱のマーク、それにしてもパン焼き鍋がこの時代の民家にあったとは…



 この博物館を訪れる視覚障害者も多いことは、あの点字のつぶれ具合からも推測できる。ただ、ガラスの向こうの展示品のほうがやはり圧倒的に多かったのも事実である。見えないものにとって模型をまず触ってから模擬体験をしたり、言葉の説明を聞くことはとても有効である。その意味では、さらに視覚障害者にも手で見ることができる展示物が増えることを期待している。

江戸東京博物館
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/

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