第45回 京都の巻 その15 東山七条は秀吉がいっぱい!点図を持ってでかけてみませんか?

 ここ東山七条周辺には秀吉の香りがいっぱい。秀吉ゆかりの場所が集まっているのです。
 まずは歴史の教科書にも出てくる秀吉の方広寺。奈良の大仏をしのぐ大きさだったと言う木造の大仏が「京の大仏」として存在していたことをご存じですか。高さ19mの黒漆に金箔の大仏は方広寺にあったのです。また、ここの釣り鐘は大坂の陣のきっかけを作ったいわく付きのあの文字が刻まれている梵鐘です。

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釣り鐘には「国家安康君臣豊楽」の文字が白枠で強調されている



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方広寺大仏殿の跡地公園には大仏の大きさを示す鉤形の石のベンチが並ぶ



 また、方広寺大仏殿跡地の南側には明治になって再建された豊国神社が立ちます。ここが現在では正面通の東の突き当たりです。秀吉は大仏殿建造にあたりこの正面通を開鑿したのでした。

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豊国神社鳥居をくぐると秀吉がお出迎え(とどかないので杖で胡座の膝をさぐる)



 唐門は国宝。秀吉の死後、朝廷から「豊国大明神」の神号が下賜され後陽成天皇の書となる扁額です。有名な左甚五郎作とされる鯉の滝登りの彫刻や目無しの鶴の彫刻など見所の多い四脚門となっています。正月三が日のみ唐門が開かれ本殿に参拝ができます。

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壮麗な唐門。前には千成り瓢箪の形の絵馬が珠々なり



 本殿裏に回り込むと、隠されるように立つのが馬塚とよばれる五輪塔。秀吉の神格化を許さない家康が秀吉供養のために立てたもののようですが、塔には秀吉の名前は無く、代わりに梵字と「元和元年八月十八日」の祥月命日の日付が刻まれているだけです。

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馬塚の高さを調べてみた。ここに「元和」の文字が彫られているような感じ…



 そして、正面通に戻ると、こちらが秀吉の朝鮮出兵の忌まわしい爪痕の耳塚(鼻塚とも)。

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そいだ耳や鼻を持ちかえりその数で朝鮮での戦功を競わせた秀吉の耳塚



 ここ方広寺の往時の広さを物語る話に、三十三間堂は方広寺の仏殿だったという話があります。つまり南の国立京都博物館(京博)を含め七条通を超えて三十三間堂まで方広寺の敷地が広がっていたのです。そのことを示すものとして、大和大路通沿いの京博敷地には当時の秀吉による方広寺の石垣がしっかり残っています。この石垣の裏側で石の隙間にこめられていた石には多くの石仏が使われていたようです。

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方広寺石類とよばれる巨大な石の壁が京博の敷地に残る



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京博の東庭には秀吉の石垣にこめられていた石仏群が発掘され祀られている



 また今の方広寺からははるか南の三十三間堂の南端までが秀吉の方広寺の領域でした。方広寺の南大門と太閤塀が今の三十三間堂に残っています。

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三十三間堂南端に東西に残る方広寺の太閤塀



 この三十三間堂は、もとは後白河上皇が平清盛に造らせたもので、現在は妙法院の飛び地境内で、南北に約120mといった細長い建物です。その内部は、千体の千手観音立像が前後10列に整然と階段状に並ぶまるで「仏像の森」。写真は撮れませんが、見えたら圧巻!ただ見学順路の終わり近くには、この建物の全体像と千手観音立像の模型がありじっくり触ることができます。

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秋の三十三間堂全景



 次は、三十三間堂の東隣の養源院。秀吉の側室・淀殿が父の浅井長政らの供養のために秀吉に願って創建したお寺です。

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秋の養源院門前



 見所の一つは俵屋宗達の杉戸絵。見えなくても宗達がモチーフにした白象や獅子についてはレリーフが準備されており表情が手でつかめます。また、関ヶ原の戦いにまつわる「血天井」の話など案内人の解説はとても親切です。

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俵屋宗達が杉戸絵に描いた白象と獅子のレリーフに触れてみる



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境内に暮らす地域猫、背中をなぜなぜ



 最後に、さらに東隣へ進みます。東山通りを渡ったところが智積院。こちらにも秀吉の香りが漂います。この智積院も、幼くして亡くなった最初の息子・鶴松の菩提を秀吉が弔うために建てたお寺が前身なのです。長谷川等伯・久蔵父子が描いた「桜楓図」は国宝。桔梗や紅葉でも大人気のお寺です。

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講堂の襖絵「桜楓図」(レプリカ)楓の巨木が真っ赤っか



 季節折々に梅や桜、紅葉なども楽しめる東山七条区域。見えない人もこちらの点図を持って東山七条周辺を歩いてみませんか。きっとあなたも秀吉に思いをつなぐことができるはずです。この点図に興味のある方はメール連絡してください。

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東山七条周辺の点図地図

この点図に興味のある方はメール連絡してください。


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