第6回 兵庫の巻 その1 心ゆくまでその手で作家とダイレクトに対話せよ!「六甲山の上美術館・さわるミュージアム」(神戸)


 昨年9月の台風の影響で2月末までは運休となってはいるが、六甲山ロープウェイで山頂駅。そしてバスで数分、スノーランドバス停すぐに、「山の上美術館」はある。昨年秋に開館したばかりの「さわるミュージアム」だ。まさにその名の通り、手で触れて感じるための美術館。視力がないからしかたなく手で触ってもいいものを集めましたというような場所ではない。見える・見えないにかかわらず触って感じる日本初の美術館である。触ることで作品が壊れることは最初から想定済みですと矢野館長。入場料は1000円。お昼のお弁当は神戸牛のローストビーフがたっぷり入ってこれまた1000円。お昼時をまたぐのならあらかじめこのお弁当を予約しておこう。とてもお得である。納得できるまで時間をかけてじっくり作家との対話。自己との対話を楽しめる場所である。

写真1

これが六甲山の上美術館だ

 彫刻・ブロンズなど作品は数百に及ぶ。じっくり手で観察するのなら、やはりスタッフの方の説明を受けながらポイントとなる作品鑑賞と行こう。それでも3〜4時間は食事休憩をふくめて余裕をみて出かけたいところだ。

 まずは、私なりの作家とのダイアログをいくつか書き記しておこう。



写真2

木彫「イタリアの少女エレナ」。小林陸一郎作。髪のボリュームがストレートに伝わってきた。

 このイタリアの少女は、髪の毛が特に気に入った。かつてこのような髪の毛の表現を私はみたことがない。ボリューム感を出すためか山の稜線が太くうねるような流れ感。手のひら全体ですっぽり包みこみつつ、心地よく滑る手のひら。黒髪ではないのだろうが、イメージとしては艶やかに湿る昆布のそれと一致した。




写真3

木彫「遊」 小林陸一郎作。昔遊んだ宇宙独楽をイメージしてしまったので、私の中では「コスモス」と命名。

 これは触りながら、その形を順々に頭に構成していく楽しみがあり、その意味で気に入った作品となった。二人の女性の垂直な交叉が概観の円とも相まって昔遊んだ宇宙独楽をイメージしてしまった。なめらかな胸の膨らみから腰のあたりでひねられつつ角張っていく女性。その足先はまるで魚のヒレとなって宇宙遊泳を楽しんでいるかのようである。



写真4

木彫「砂丘U」。桑山賀行作。なぜかもの悲しい。なぜ少女は膝をかかえて一人いつまでもここにいるのだろう。

 次は、「砂丘U」である。これが木彫りとは到底思えない砂の表現である。彫刻刀でどうやってこのざらざら感を出すのであろうか。それにしてももの悲しい。砂囲いの朽ちかけているような杭、狙う獲物も定めずにそこに泊まるカラス、そして、膝をかかえて何時間もしゃがみこんだままの少女…。思わず、この女の子に何があったのか考え込んでしまった。




写真5

木彫「海の番人」、桑山賀行作。オコゼの形をはじめて知った。

 触る楽しみのひとつに、これまで言葉でしか知らなかったものの形がダイレクトに分かる瞬間との出会いがある。この「海の万人」もまさにそういった瞬間であった。オコゼとの出会いである。はじめて私はオコゼの容姿をイメージすることができた。つきだした下あご、口のまわりにはえている針のようなひげ、飛び出た眼球、そして踊るいくつものヒレ…。実にユーモラスである。「番人」とあるのはなぜだろう。図鑑でもあたってみようか。知らず知らずに知的好奇心も引き出されていく。

 次の作品群は「宝石装飾」(カメオ)である。矢野館長はもともと宝石装飾の仕事をされてきた方であり、長年にわたり収集された貴重な作品がおしげもなく手で触れられるのだ。写真6の瑪瑙(めのう)を彫り込んだ「アダムとイヴ」はなんと2000万円という。




写真6

カメオ「アダムとイヴ」。瑪瑙(めのう)石の各層の色がうまく表現に用いられている。

 私のお気に入りは600万円といわれた「ボウル」という作品。この薄さ、この波打つフォルム、この手触りの快さ、これが石だなんて信じられない技である。




写真7

カメオ「ボウル」。厚さは1ミリもないのでは…




写真8

カメオ「蛙」。蛙が乗っているキノコの裏にはなんと胞子を出す細かなヒレまでが表現してあった。



写真9

カメオ「狼の親子」。口の中、鋭い歯までもが作られている。何度もいうがこの細密表現を宝石でするとは…。



写真10

宝石装飾(カメオ)をする道具。

 いくつもの大きさのドリル。この頭にダイヤの粉末をオリーブ油で塗りつけて宝石を削るのだ。ドリルの回転の一瞬にダイヤの粉は飛び散る。そして、また塗っては削る。途方も無く気の遠くなるような作業である。

 矢野館長夫妻に開館にあたっての話を聞くことができた。阪急百貨店の仕事で海外生活を続けておられた矢野さんは、若くして母親を亡くされたという。しかも、母親は糖尿病の末、目も見えなくなっておられたのだ。だが、海外で必死で働く矢野さんに対してお母様は「目が見えなくなったこと」を一言もお話にならずに旅立たれたのであった。最前線で活躍する息子に心配をかけてはいけないと静かに死を迎えられた母の気持ち、それに応えたいという一心でいつか母に胸を張って伝えられることをしてみようと考えてこられたという矢野さん。ある日、カメオ作品なら、見えない方でも手で触って読み取れるのでは…と次の写真の「マヤ」をもって大阪府の盲学校を訪ねたという。校長室で全盲の中学生が質問をしながらどんどん指先でこの構図を読み取っていく姿に矢野さんは「これだ!」と感じたのである。風の動きになびくカーテンのラインの変化、足先の爪まで彫り込まれた作品はしっかり全盲の少女の指からイメージへとなって彼女に流れ込んでいったのであった。




写真11

大阪府の盲学校ではじめて全盲の人に触れてもらったカメオ「マヤ」

 この「さわるミュージアム」はとても奥が深い。これらの他にも触り所はまだまだある。江田挙緩氏の考案された世界でも類をみない石創画法により、触る絵画として完全に復刻された高松塚古墳壁画やダリの作品。高橋りく(富山美術学院院長)により考案されたマリス画法という砂の粒子の濃淡で色相を表現した作品群など、これまでの全盲としてやってきた長年のイメージの私の構築法ではすぐにはとらえきれない表現の世界が続くのである。




写真12

石創画法による高松塚古墳壁画。中国の正座表現など、初めての「形との出会い」が存分に楽しめる。また、1000円で、指絵の具による作品づくり体験もできる。




写真13

マリス画法(薄い色は砂が細かく濃い部分は粒子の粗い砂となっている。色の違いを匂いで表現する)「CHANGE THE WORLD」。福島原発をバックに白い杖をもつモナリザ像。ただ見えない私の指では読み取ることは難しかった。



写真14

木彫「無意味な存在」、小林陸一郎作。私の固いイメージではこれは「掃除機の昆虫」かな…?

 おいしいお弁当タイムもふくめて約3時間、作家との対話をダイレクトに楽しんだのだが、正直まだまだ時間は足りなかった。2度3度と訪れたい美術館であることは間違いない。見物にやってくる近所の幼稚園の子どもたちは、見えているにもかかわらず必ず手でふれてみるという。むしろ見ることよりも触ることに魅力を感じていると矢野さんはいう。触れることの意味とは何だろう。見えなくなってしまったから人はしかたなく触れるのだろうか。そうではない。見えなくて生まれたから私は触れるのでもない。触れたいから触れるのである。人はきれいなもの、輝くもの、呼び声が聞こえるものには手を出すものなのである。手による納得の体験、それがここ六甲、山の上美術館にはあるのである。

●六甲山の上美術館・さわるみゅーじあむ
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