盲学校に聞く"インクルーシブ教育時代の歩き方"

連載をはじめるにあたって



 筆者が生徒時代を過ごした養護学校義務化(1979年)以前は、どの盲学校にもほぼ同じような空気が漂っており、他県の盲学校の様子もある程度推察できた。規模に大小はあれど、どの盲学校にも共通の文化があった。視覚障害者だけの狭い文化と言われれば確かにそれまでだが、野球・卓球・バレーボールといった盲人スポーツ、弁論や演劇や生徒会活動、どれも全国で盛んであった。その頃の生徒は、筆者も含め、盲学校やその教員・寮母に専門性なんか求めなかった。ただ不平を言い、悩みをぶつけ、そして語り合った。しかし、全国の盲学校で見られたこれらの風景は、次第にその濃密さを失っていったようだ。視覚障害者が築いてきた盲学校文化の中に、視覚障害者以外の要素を受け入れざるを得なくなり、むしろ見える人たちの文化に同化する方がスマートだとされるようになったからである。視覚障害教育は健常児との交わりに夢を見、教育委員会は盲学校を単なる赴任先の一つとして扱っている。障害児やその教育を「特別視」してはならないという理念が、絶対的真実であるかのように考えられているのは、時代の要請でもあった。

 在籍生徒の障害の重度化・重複化が言われて約40年、生徒減への対応と盲学校の専門性が議論されて約20年、視覚障害児が地域の小学校に遠慮することなく通えるように法改正がされはじめて約10年である。各地の盲学校は、これらの課題にほぼ単独で立ち向かってきた。点字による学習児であっても地域の一般小学校に通うことが当然の権利となったこの時代は、盲学校教育を都道府県単位の「その地域における特別支援教育のあり方」の一つとして位置づけ直すことを迫っている。盲学校に共通した視覚障害者の文化は、インクルーシブ教育を標榜する各都道府県の特別支援教育によって雲散霧消してはいかないのか、その担い手であった視覚障害者一人ひとりは分断されてはいかないのか。各地の盲学校は今、どのようなミッション(盲学校の現代的使命)の下、どのようにそのビジョン(その地域における盲学校の将来像)を掲げているのか。

 大きく変貌しつつある盲学校の今を伝えるべく、筆者が各地を実際に訪問し、そこで繰り広げられているインクルーシブ教育時代における盲学校の歩き方について、上に述べてきた筆者の問題意識を切り口に、5回にわたる連載をお届けする。

 なお、筆者が訪問したのは2016年度のことであり、原稿内の固有名詞については当時のものであることをお断りする。第1回〜第5回の論考については2016年6月〜2017年2月にかけて月刊『視覚障害』誌上にて隔月掲載されたものを加筆・修正した。また、第6回については、同誌2018年3月号にて私が考える「今後の盲学校のあり方」について発表した原稿に加筆・修正したものである。

第1回 ここまできた「生徒減」を考える 〜在籍10名の鳥取県立鳥取盲学校〜

第2回 盲学校の「センター的機能」を考える 〜地域に打って出る福井県立盲学校〜

第3回 生徒減も怖くない総合特別支援学校化を考える〜5障害すべてに対応する下関南総合支援学校〜

第4回 複数の支援学校を一箇所に集める拠点型総合特別支援教育エリアを考える〜地域校には持ち出せない教育が熟成する秋田県立視覚支援学校〜

第5回 特色ある盲学校づくりを考える 〜柔道整復科を新設した大阪南視覚支援学校〜

第6回 インクルーシブ教育時代における盲学校の歩き方ルート集

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